今回は兵庫県の宍粟市にやってきた。以前掲載した伊和神社の記事について覚えていらっしゃる方は既に察しがついていると思うが、伊和神社と嶋田部落の関係について実際に現地で確認するためである。
嶋田部落は1935年当時で107戸あったというから、農村にしては大きな部落である。
先に、嶋田部落が2000年から祭りに参加するようになったという伊和神社を訪れた。大きな神社で、神社の前は道の駅になっており、地元の野菜や土産物を買うことができる。嶋田部落は、この伊和神社から2キロメートルほど南にある。
そして、これが嶋田部落の南のはずれにある七社神社。もとは、揖保川の川縁にあったが、堤防の建設のために今の場所に移された。
七社神社の創立年は不明で、天平宝字年間(西暦757から765年)には既に存在したとされる。一方、伊和神社は西暦144年の創立と伝えられるが、実際にどちらが古いのかは地元では諸説あるようだ。
神社の横の民家のコンテナに「金のいらない仲良い楽しい村」の文字が。この部落のスローガンだろうか。
部落の中を歩いて気づいたのは、空き地・廃墟・ニコイチという同和地区に見られる3要素があまり見られないことだ。空き地や廃墟はないわけではないが、兵庫県の田舎ではごく普通の光景である。これは、見た目だけで部落と判断するのは困難である。
と思ったら、「いきがい創造センター」という立派な建物が。もしかすると隣保館か? と思ったが、これは市の所有ではなく、自治会館のようなもののようである。
自治会の掲示板。嶋田地区の人口ピラミッドがあるのが面白い。自治会の活動が活発で、いろいろやっているようである。
地元の老人から伊和神社と七社神社の歴史について話を聞くことができた。
「嶋田は伊和神社の祭りには参加できんかった。差別されとったからな。だけど、最近村でも屋台を作って参加するようになった」
確かに嶋田は伊和神社の氏子ではなく、さきほどの七社神社の氏子であるという。老人によれば、七社神社は伊和神社の仮の宮として作られたもので、伊和神社よりも歴史は古く、伊和神社が作られた後は不要になるはずが、そのまま残っているのだという。
嶋田部落が伊和神社の氏子でないことは差別と考えないのかと聞くと、こんな答えだった。
「差別も何も、藩が違うから。嶋田は三日月藩、他は姫路藩」
氏子の問題というのは、部落差別というより、そもそも別の領地だったという歴史的経緯ということが真相らしい。伊和神社の氏子に入れてくれと住民が要望することもないそうだ。
それでは、宍粟市に解放同盟が抗議したのは一体何だったのだろうか。
「解放同盟? ワシも若い頃はあっち行ったりこっち行ったりしとったよ。新しい時代のためにな。だけど解放同盟は十年以上前から活動していないし、若い人は興味がない。今は、周りの村とはみんな仲良しや」
古いニコイチが1軒だけあった。