Quantcast
Channel: 宮部 龍彦 - 示現舎
Viewing all articles
Browse latest Browse all 672

部落探訪(46)大阪市北区中津3丁目“さんば”

$
0
0

大阪のスラムと言えば、西成のあいりん地区が有名だが、それに次ぐ規模のスラム―正確にはスラム跡とでも言えるものが、ひっそりと残っている。それが中津である。

ただし、結論から言ってしまえば、「部落」としての中津は名実共にほぼ消滅してしまっている。中津は、「解放」された部落である。

全国部落調査によれば、1935年の中津の世帯数は105、人口は495である。しかし、この数字が部落の規模を表したものかどうかは疑いがある。

なぜなら、大阪市同和事業促進協議会『10年の歩み』によれば、舟場地区について実際の部落民の戸数は全国部落調査に記録がある世帯数の半分にも満たない旨の記述があるからだ。後述するが、実は中津と舟場の起源は、現在は淀川の底にある村であり、2つの部落は兄弟のようなものである。

阪急中津駅のすぐ近くにある中津中央公園。『10年の歩み』によると、ここが中津部落の中心地だった。ここは戦時中に空襲で焼け、さらに戦後大阪市や阪急によって土地が買い上げられ、住民は立ち退いていった。

『10年の歩み』の「立退き後の中津」とキャプションのある写真と同じアングルで、現在の場所で写真を撮ると、上の通りとなる。もはや跡形もない。

中津というと、この中津商店街が知られている。

うなぎの寝床のような細い商店街。こんなにも細長い商店街は大阪では他にないだろう。ここが中津の部落だと地元住民さえ誤解していることがある。かくいう筆者も最初はそうだった。しかし、ここはスラムであって、もともと部落民の家は数軒しかなかったという。

商店街の周辺には細い路地がある。道路と民家の境目がいびつで、民家の土地が無秩序に道路にせり出して来たことが分かる。これはスラムだった地域によく見られる特徴だ。

空き家、空き地も多い。自動車が入ってこれない場所が多く、土地の広さも中途半端などで、マンション等を建てるのが難しいためだろう。本気で開発しようと思ったら、一帯を買い上げないといけない。

現在、ホテルやオフィス街になっている大阪駅の北側は、戦後間もないころまではこのような路地が入り組んだスラムだった。しかし、大規模に開発されて現在のような状態になっている。開発の波は徐々に北上していったが、ここまでは到達しなかったということだろう。

もとは「中津浜通2,3丁目」という名前だった。現在も町内会名にその名残がある。

現在の中津小学校は、もとは中津中央公園隣の大阪市立北スポーツセンターの場所にあったのが移転したものだ。

この豊島神社から、中津の歴史を垣間見ることができる。神社の敷地内には多数の鳥居、祠がある。これは、今は淀川の底にある多数の村の神社がここに合祀されたからだ。

明治18年(1885年)の淀川の大洪水を記念した石碑。これを期に、淀川の大規模な河川改修が行われた。

河川改修に伴って移転した村に光立寺村があり、その中に「皮多村」があった。「皮多村」の住民の一部は後の中津部落の近くにあった「下三番村(通称「さんば」)」に移転し、一部は後の舟場部落に移転した。これが、中津・舟場両部落のルーツである。

なお、中津と言えばイトマン事件で有名な許永中の出身地としても知られているが、許永中自身は単にスラムの住民であり「部落民」というわけではないと考えられる。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 672

Trending Articles