1986年7月20日の全国自由同和会(現在の自由同和会)の設立により分裂した全日本同和会。分裂の原因は同時期に相次いだ「北九州土地転がし事件」等の“利権あさり”の問題だということが通説であった。しかし、同和会関係者によれば、それらは分裂の要因ではなく、本当は「愛媛県庁占拠事件」なる事件が原因だという。
具体的にそのような事件があったのか、愛媛県庁に聞いても当時を知る者がおらず、詳細は謎であったが、この度、事件の記事を発掘した。
記事は1985年8月27日と28日の「愛媛新聞」に掲載されていた。
記事によれば、8月26日に愛媛県担当者との会談を求めて同和会が県庁を訪れたが、担当者は拒否。会員160人が県庁前に集結して、街宣車で会談を要求した。このため、一般県民がほとんど県庁に入れない異常事態となった。同和会は25日から青年幹部研修会を開き、それに先立つ22日から県庁は警戒態勢を取っていたという。
当時を知る同和会関係者によれば、この時は愛媛県庁への対応のため、全国から会員が動員されたという。同和会は解放同盟と違い、集団で押しかけるようなことはしない主義だったのであるが、この事件の時は例外で、同和会が同様の事をやったのは過去にも先にも、これ一度きりなのだという。しかし、この一件が政府・自民党から問題視され、同和会と自民党の関係が壊れ、自由同和会が別れてしまった。
同和会による抗議・街宣は27日も朝から行われたが、同和会は午前中で引き上げ、午後からは一般県民も県庁に入れるようになった。
こちらが25日に行われた愛媛県同和対策協議会(同対協)の第25回大会。記事はこちらの方が大きい。県庁が封鎖された27日、28日の事件の方が、はるかに大きな事件だと思うのだが、このような新聞での扱われ方がいかにも同和である。
愛媛県では行政と解放同盟による県同対協が同和事業を主導する「愛媛方式」が行われており、そこから締め出された同和会が反発したことがこの事件の背景にある。
その県同対協は、現在の愛媛県人権対策協議会であり、現在のスローガンが次の通りだ。
一、人権のまちづくり対策基本法の制定を実現しよう。
一、国際連帯の解放運動を展開しよう。
一、愛媛方式「対話と協調」「行政と共闘」「教育との連帯」を全国的なものにしよう。
30年経った今も、全く進歩がないと言うべきか。