今から約10年前の2006年、中川昌史解放同盟古市支部長が5年以上にわたって、病欠扱いでほとんど出勤することなく奈良市から給与を受け取っていたことが問題となった。さらに、自身が所有するポルシェが市道の段差で傷ついたため、市に補償を求めていたことから「ポルシェ中川」と呼ばれるようになった。
この事件に縁のある部落が、今回訪れた北古市である。1935年の資料では世帯数255、人口1180、生活程度下とある。
まず目についたのは、この集会所である。「改良住宅集会所」とあることから、改良住宅の建設に伴って設置されたことが分かる。古市では「小集落地区等改良事業」が行われた。
中川氏の妻の建設会社。現在も営業中である。隣の隣が中川氏の自宅であるが、残念ながら本人には会えなかった。家族によれば、昌史氏はもう解放同盟や市役所とは関わっていないということである。
ニコイチ形式の改良住宅が非常に多数立ち並んでいる。屋根が平らな古いタイプと、瓦屋根が乗っている新しいタイプが混在している。
浄土真宗本願寺派 光明寺。奈良にある寺はこのように、門が閉ざされていて自由には入れないことが多い。
細い道もあるが、全般的にこの部落の道路は広々としている。
同和事業が行われた部落は、ここに限らず自動車が止められるスペースが必ずと言っていいほど確保されている。道幅が狭くて消防車が入りにくい、路上駐車が多いといったことが、部落の「差別の実態」と言われたことが関係しているだろう。
また、意外なことに外に開けていることも奈良の部落の特徴だという。奈良にはかつて環濠集落だった集落が多く、また住宅の入り口が集落の内側を向いた、閉ざされた集落が多い。しかし、古市は国道188号線から入る道が何本もあり、玄関が国道に面した家もある。
案内者によれば、街道沿いの部落は商売が盛んだったことが影響しているのではないかという。
廃墟・空き地もいくつかあるが多くはなく、あまり「避けられている」という感じもしない。
部落内に集合住宅や建売住宅が作られ、外から住民が流入していることが分かる。
実は、最近になって奈良市が古市町内の公有地を次々と売却している。「ポルシェ中川事件」の影響からかどうかは分からないが、新しい住民の流入には奈良市のこのような方針が影響しているだろう。
ただ、非常に豪華な同和事業施設は残っている。部落内には公衆浴場と、立派な老人憩の家がある。
そして、これも非常に豪華な隣保館。隣保館の中にも男女別の浴室がある。この隣保館の図書室の蔵書も凄くて、「部落解放」のバックナンバーがかなり昔のものから揃っており、部落関連の主要な文献はほぼ漏れなく置かれている。
隣保館だけあって、やはり人権関係の掲示物やパンフレットが置かれているが、それほど多くない。むしろ、なぜか自警団募集の張り紙が目立つ。
…と思ったら、公衆浴場の近くの掲示板で解放新聞を発見した。
もう1つ煙突のある建物があったので、近くに行ってみると、閉鎖されていた。その作りから見ると、ここも公衆浴場だったようだ。つまり、この部落には公衆浴場が2つあった。それだけ大きな部落ということである。