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Channel: 宮部 龍彦 - 示現舎
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部落探訪(48)特別編鳥取市吉岡温泉町谷山(前編)

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温泉のある部落と言えば、以前長野県の大室部落を紹介した。ただ、大室の場合は温泉が見つかったのは平成になってからである。

しかし、今回紹介する吉岡温泉は応和2年(962年)に発見されたと伝えられ、優に1000年以上の歴史がある。そして、温泉自体が部落の歴史や解放運動、同和事業と密接に関係しているという、稀有な部落である。

吉岡温泉の秘湯、幻の“エタブロ”

1795年に書かれた地誌、『因幡誌』によれば、当時吉岡には9戸の穢多村があったとされる。そして、1897年の記録では23戸、1923年には29戸、1935年には26戸、そして1997年には38戸とされ、理由は分からないが徐々に増えている。鳥取の多くの部落と同じく、吉岡温泉全体が部落というわけではなくて、かつて「湯村」と呼ばれた本村に対する分村であった「谷山」が部落であった。

さて、『部落解放』1977年12月号17頁で、当時の部落解放同盟鳥取県連合会書記長である前田俊政氏がこう述べている。

「下湯という温泉がありまして、これは俗称「エタブロ」と言われていました。しかしこれは、神経痛・皮膚病に非常によく効いて、近郊はもとより、近畿・関西からもかなりの湯治客が来ておりました。」

なぜ「エタブロ」と言うのかというと、ある時本村で火事があった時に、谷山が消火に貢献したことから、その源泉の利用権が谷山に与えられたと言われているためと考えられる。その火事がいつ頃のことかは、残念ながら分からなかったが、おそらく幕末か明治初期であろう。

この前田俊政という人物、部落地名総鑑に「下土居」という小字名が書かれているといった嘘を言うなど、よく話を盛ることから、「エタブロ」と言われていたというのは本当かどうか疑った方がよいだろう。しかし、この「エタブロ」という呼称、いかにも効能がありそうな感じがするので、今後はこの呼称を使う。

吉岡温泉には、確かに「共同浴場 下湯」がある。実はこの建物、同和対策事業で作られたものだ。

入浴料は大人が200円と、非常に安い。ただ、下湯が特別に安いわけではなく、メインの浴場になっている「吉岡温泉館」の入浴料も同じく200円だ。

前述の通り下湯は効能が高いと言われ、「瘡湯」とも呼ばれていたのだが…。

住民に「下湯の源泉はやっぱり特別なんですか?」と来てみると「いや、周囲の旅館と一緒ですよ」と言われて、拍子抜けしてしまった。

しかし、源泉の管理に関わっているという住民から、次のような話を聞くことができた。

「昔は深く掘られて階段で降りるようになっていた温泉がありまして、そこだけはぬるい湯が湧いていました。普段は湯の色は透明なんですが、地震があったりすると白く濁って、それが効能が高いと言われていました。でも、そこは埋められてもうないですよ」

「温泉が自噴していたんですか?」

「はい、地面に穴を掘ったら湧いて出てきたようなところに、そのまま入ってたんですよ」

「ちなみに、「エタブロ」って言われてたんですか?」

「さあ、それは分からん」

現在の下湯の温泉分析書

吉岡温泉は熱い温泉で、50度くらいある。しかし、「エタブロ」だけはなぜかぬるかったそうだ。「エタブロ」が埋められた理由は、もともと吉岡温泉位は非常に多数の源泉があったのだが、管理が大変だったので、維持費用削減のために3つの源泉に集約されたのだという。そして「エタブロ」が埋められた時期というのが、今の下湯の建物が作られた頃だというのだ。

昨今は、温泉の「湯枯れ」が各地で問題になっている。今の感覚ではもったいないと思ってしまうが、当時は効率が優先だったのだろう。

いずれ、下湯の建物も耐久年数を迎える。建て替える際は、ぜひその下を掘って、幻の「エタブロ」を復活させるべきである。

谷山は、名前の通り温泉地から谷沿いに上がったところにある。地元の住民も谷山には「上がる」という言い方をする。

これは、同和対策で作られた谷山集会所。

集会所以外に畜産団地の建設、農道の敷設、用排水工事が同和対策で行われたことが分かる。先述の前田俊政も市議会議員として石碑に名を連ねている。

吉岡温泉を地図で見ると、県道191号線が温泉地を迂回するように通っている。これが同和対策で作られた道路だ。

ただ、さきほどの「エタブロ」の件と言い、この道路と言い、住民の目先の都合が優先で、観光資源としての温泉や観光客のことはあまり考慮せずに同和対策が行われた感が否めない。

かつて、谷山は本村との間で山林や温泉の使用権のことで幾度となく揉めていた。はたからみると、単なる村同士の争いにしか見えないのだが、「部落にとって不利益なことは全て差別」とする朝田理論が持ち込まれ、行政闘争が行われた。当時を記憶する住民はこう語る。

「小学生の頃だったかな、谷山の人が、何やらメガホンで呼びかけていましたよ。それで、谷山の子が全部学校を休んで、修学旅行が中止になった。自分が覚えているのはそのくらいかな」

ただ、その時代を知る住民も高齢になって、当然といえば当然だが、あえてそのような話をする住民もあまりいないので、若い人は興味が無いのが実情だ。

(次回に続く)


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