江戸時代は「久保村」、明治期は「南村」あるいは「南野村」そして、1958年に「末広町」と名前を変えたこの部落は、1000世帯に迫る規模の滋賀県でも最大の部落である。そして、おそらく読者が部落に持つイメージの全てが盛り込まれた部落でもある。
近江八幡市は既に同和行政を終わらせた自治体である。隣保館や集会所は取り壊されるか他の施設に転用され、改良住宅は払い下げが進められている。そこで、まず注目すべきはニコイチ住宅の「つなぎ目」である。
上の2つのニコイチ住宅の写真を注意深く比べてみると、大きな違いがあることに気付く。
1枚目の写真の住宅は中央部がつながっているが、2枚目の写真の住宅は中央部で分かれている。さらに、2枚目の写真の住宅の中央部は、そこだけ壁が新しく塗られていることが分かる。つまり、2枚目の写真の住宅は後で中央部を分離する工事が行われたということだ。
近隣自治体の関係者によれば、これにより改良住宅が払い下げられたものなのか、そうでないのか判別できるという。改良住宅を払い下げるには、2戸の土地と建物をそれぞれ別の住民のものとしなければならないので、分離する必要が生ずるのだ。
末広地区ではニコイチ住宅の払い下げが進行中であるため、分離したものとそうでないものが混在している。
団地タイプの公営住宅もある。
ニコイチ、空き地、廃墟という、旧同和地区によく見られる3要素がこの地区では見事に混在している。
ただし、同和事業が終結したため、もう隣保館はない。かつて末広会館があった場所にある「旧会館前」というバス停の名前のみがその名残を留めている。
この川がほぼ近江八幡市と東近江市の境界にあたるのだが、東近江側も「平田駅前地区」として同和地区指定がされていた。平田駅前は末広地区から「にじみ出て」できた部落で、実質的には末広部落は近江八幡市と東近江市の市境をまたがって存在している。
ここには肉屋が非常に多い。
近江八幡市役所が販売している書籍「くらしとしごと 近江八幡の部落史」によれば、末広部落はもともと皮革産業の村であった。それが、江戸時代末期に薗畑村(現在の東近江市御園町)から食肉生産の権利を買い取り、食肉の村となったと言われている。ちなみに、その御園町は同和地区指定を辞退したが、一部住民の要望により当時の八日市市が独自に施策を行うという変わった経過をたどっている。
「滋賀の部落」には、「関西において食肉業を営む人々の中の、約九割までが部落出身者で占められているという。その中で業界の中心的地位を占めて活躍している人物が、多くは近江の末広部落から出ている人々である」という記述がある。近江牛のみならず、関西の食肉産業の歴史はこの部落抜きには語れず、「肉屋と言えば部落」というステレオタイプの源であるとも考えられるが、残念ながら末広の名前が大っぴらに語られることはない。
末広でこれだけ食肉業が盛んになった理由の1つは、儲かるからである。「くらしとしごと」によれば、近江八幡市が出来る前の1960年当時の武佐村役場の職員の月給が5200円だった時に、肉職人の月収が25000円ほどだったという。そのため、多くの若者が他の仕事よりも肉職人を選んだ。
ということで、肉屋の1つでホルモンを買って帰った。これは牛の肺とセンマイ(第三胃)のミックスホルモンで、茹でてあるのでそのまま焼き肉のたれをつけて美味しく頂ける。もちろん、「部落料理」としてよく知られるようになった「さいぼし」も買うことができるが、その時々によってあったりなかったりするそうなので、事前に予約した方がよいだろう。