日本最大の同和地区はどこか。京都の崇仁だとか北九州の北方だとか様々な言説があるが、答えは1つである。大阪市の西成地区だ。
2003年2月に大阪市人権協会が発刊した「50年のあゆみ」によれば世帯数10,445、人口22,027で、次に大きな地区である浪速地区の世帯数2,729、人口5,936を大きく圧倒し、全国でも比類なき規模である。しかし、西成に対しては様々な誤解がある。この地区の一部を探訪しつつ、その誤解を少しずつ解いていこうと思う。
西成と言えば、講談社の漫画雑誌別冊フレンド(1996年3日)に掲載された、みやうち沙矢の「勉強しまっせ」が「気の弱い人は近づかない方が無難なトコロ」と説明し、その結果、西成区内の部落解放同盟関係団体等の抗議により掲載誌の回収と連載中止に追い込まれたことがあった。
しかし、ここで言われた「西成」は部落の「西成」ではなく、主に新今宮駅や萩ノ茶屋駅周辺の釜ヶ崎(あいりん地区)のことを指すと考えられる。90年代の釜ヶ崎と言えば、新今宮駅はゴミだらけで、路上で盗品が売買される「どろぼう市」があり、そこらじゅうに浮浪者の小屋があり、路上で覚醒剤が売買され、暴力団がノミ行為を行うなど、確かに気の弱い人は近づかない方が無難なトコロであった(今でも先述のようなものが一掃されたわけではないが、あれでもかなりマシになった)。
西成は様々な顔を持つ街で、先述の釜ヶ崎の他、遊郭地帯として有名な飛田新地(山王)があるし、あちこちに「じゃりン子チエ」が出てきそうな下町の商店街があるし、南部は高級住宅地の帝塚山と接している。そのような、何でもアリなところが、今となっては逆に西成の観光資源になっていると言えるだろう。
さらに明治期にさかのぼると、淀川を越えて神崎川の辺りに至るまで、現在の大阪市北部一帯が西成郡に属していた。西成は今でも広く、昔はもっと広かったのである。
さて、ここでスポットを当てるのは部落としての西成である。とすると、やはり参考文献としては先述の大阪市人権協会が発刊した「50年のあゆみ」が最も重要なものになるだろう。「50年のあゆみ」によれば、西成の同和地区の範囲は次の通りである。
北開1~2丁目、中開1~3丁目、南開1~2丁目、出城1~3丁目、長橋1~3丁目、鶴見橋1~3丁目、旭1~3丁目、北津守1~4丁目
以下は、それを分かりやすく地図上で区切ったものである。真ん中あたりの紫色の大きな地区が西成同和地区である。
ご覧の通り、新今宮駅や萩ノ茶屋駅周辺は同和地区に含まれていないことが分かる。街の様相も、労働者の街である釜ヶ崎とはかなり異なる。
新今宮駅から西に進んで歩道橋から見下ろしたところ。住所の上では完全に同和地区内のはずだが、普通にニトリもあって、とても同和地区には見えない。無論、事実として現在は同和地区としての扱いはされていないはずだ。
工学系高校の名門である、この今宮工科高校は住所表記上は出城の中にあるが、ここが同和地区と言えるかは微妙だ。
中開1丁目のバス停。三開とは北開、中開、南開という3つの街のことを指している。
新大阪タクシーの営業所がある。現在の新大阪タクシー株式会社は、かつての「財団法人大阪同和産業振興会・新大阪タクシー事業局」であり、文字通り同和地区の雇用対策として作られたものである。そのマークは部落解放同盟の星入り荊冠旗をモチーフにしている。
中開3丁目にある廃墟と空き地。これは、かつての「大阪市立西成同和地区解放会館」である。
その近くには、24時間400円という格安のコインパーキングが。この近辺では24時間400~600円が相場だ。駅からは少し遠いが、自動車で観光で来る人、車中泊をする人にはオススメである。
市営住宅が立ち並んでいる。既に一般化されており、誰でも入居できるのだが、ここは駅から遠いため入居率はよくなという。しかし、旧同和住宅でも駅に近い場所は人気が高いとの評判だ。
下町っぽいたたずまい。ただ、このような形式の平屋は今でも大阪のあちこちで見られる。
革製品の工場があった。漉割と書いて「すきわり」と読む。
市営住宅と、閉鎖された保育所が入り混じっている。
老人向けの施設は運営されている一方、保育所が閉鎖されていることから、高齢化していることが伺える。
こちらは同和対策として設置された浴場である文化温泉。入浴料は410円と、東大阪市の荒本の寿温泉が250円であることと比べると残念ながら格安感は感じられない。
西成地区は、地図で見ると浪速地区と隣接している。「50年のあゆみ」によれば、開という地名は海を埋め立てて開発されたことに由来しており、浪速同和地区の前身である西浜部落から派生した部落である。大正時代に在日コリアン、沖縄出身者、貧困労働者が流入して人口を増やした。また、1945年3月の大阪大空襲では、大部分が焦土と化した。
ということは、ここは隣接する西浜部落の一部とも見る事ができるし、部落ではなくてスラムではないかと見る事もできる。この点は別の資料と共にさらに検証しよう。
(次回に続く)