映画の前半では様々な部落が紹介されたが、後半では当時の部落が抱える問題が生々しく映し出され、同時期に作られた有名なドキュメンタリー映画「世界残酷物語」を思わせるものがある。部落の人々が権力側に加担した歴史、また部落の貧困の全てが直接身分差別に由来するものではなく、戦後に貧困者が集まってスラム化したという、今では語られづらい負の側面にも目を向けている。
DVDを見たくなった方は、日本ドキュメントフィルムへ。
大阪合同通運の労働争議の様子。
スト破りのヤクザ、スキャップ(ストライキの際に操業を続けるための代替要員)として部落の人間が会社に雇われたという。この時は日当500~700円で浅香部落からスキャップが雇われた。
労働組合に恨みはない、金のためにやったと語る部落の人々。
会社から支給されたスト破り要員の制服を普段着にしている部落の青年。
釜ヶ崎の労働者もスト破り要員として駆り出された。時給200円だったという。写真の場所は現在の阪堺電気軌道新今宮駅前停留場。
古地図にある余戸エタ村。余部、天部とも書く。東三条とも呼ばれるこの部落は、現在の京都市東山区の三条駅付近にある。三条地区のことである。
当時の東三条の様子。
映像にある鳥居は、この大将軍神社のものだろう。
ここは江戸時代は警吏の部落であり、この場所には牢屋があったという。
民家に残る、捕り物道具。
江戸時代の処刑の様子を記録した資料も残されている。これは三条河原に晒された首。
三条河原と言えば、石川五右衛門が釜茹でにされたり、石田三成が斬首されたり、大河ドラマでもおなじみの場所だ。
こちらは東七条部落(崇仁)。
この男性は名古屋に住んでいたが、伊勢湾台風で家と職場を失って身寄りをなくし、この部落に流れてきた。部落の住民の世話で、バタ屋(屑物商)をやっているという。
これは化粧品の量り売り。他にも食料品や燃料など、少量ずつ安く物が売られていたので、貧困者にとって部落は暮らしやすいところであったという。
これはホルモン。とても安く買えたそうだ。
東七条の高瀬川沿いの朝市。何でも買えた。
ここは、現在の京都市下京区屋形町。東七条部落の近くで、現在の崇仁地区に含まれるが、戦後にバラックが立ち並んで出来た「スラム」であるという。
浄土真宗のお寺がある部落(場所不明)。
火事で焼け落ちた寺に、親鸞上人の姿が現れたと言って念仏を唱える部落の老人たち。
部落解放同盟が組織され、行政闘争を行い、団地が作られる部落。場所は不明だが、おそらく大阪のどこかと考えられる。
部落の医療を改善するために作られた、耳原病院。それより前は、部落にとって病院とは死亡診断書を書いてもらうところだったという。この病院は堺市協和町に現存する。
部落の浴場。おそらく、堺市の「ほてい温泉」と考えられる。当時の入浴料は5円。安いので部落外からも入りに来る人がいるのは今も変わらない。
和歌山県で行われた「責善教育」の基本方針。現在では見る影もなくなってしまったが、「同和教育」も当初はこのような教育であった。「合理的、科学的な正しい物のみ方」は大人こそ身につけるべきだろう。
山また山の紀州の山奥にある12戸ばかりの部落。残念ながら正確な場所は特定できなかった。現在の田辺市と考えられる。
部落では、やむなく血族結婚を繰り返し、白子(アルビノ)の子供が何人か生まれた。当時は「白子が学校に通うなんて」という風潮があったが、地元の芦尾小学校の全面的な協力で入学が実現したという。責善教育の成果として紹介されている。
紀勢本線のトンネルの上にある和深部落。90世帯、450人が暮らす。現在の和深駅の西側の辺りである。
この部落の問題は、井戸が1つしかないことで、水くみのために子供が駆り出されることが学力の低下を招いていることと、特に水が不足する夏に衛生状態が悪くなることである。
当時、眼病であるトラコーマはほとんど解消されたが、部落にだけトラコーマが残っていた。
「これが差別だ、差別の壁を乗り越え、人はみな兄弟の理想を実現するために、さらに長い困難な道を歩かなければならない」と映画は結んでいる。