未だに切れない同和と企業の関係。なにが「えせ同和」か、そうでないのか、切り分けることは不可能だ。関係者の証言と独自入手したデータから、4回にわたって検証する。
同和と企業の関係史
2002年の同和対策事業の終結は、部落解放運動団体の収入源を大きく減らすことになった。少なくとも同和対策事業費として国から公金が支出されることはなくなり、地方においても運動団体への補助金は減る一方である。
自治体と運動団体の関係については、特に各地で同和事業の終結を主張している日本共産党の議員から議会で追及されることがあるし、住民監査請求・住民訴訟で追求されることもある。
しかし、同和にはそれ以外に、実態が見えづらく忘れられがちな一面がある。それは、民間企業・団体との関係である。特に金の問題に関して言えば、民間企業がどのように金を使うかは自由であるし、金の流れはほとんどの場合非公開なので、実態をつかむことが非常に難しい。
民間企業と同和と言えば、真っ先に「えせ同和」が思い浮かぶかも知れない。典型的なのは、会社に突然電話をかけてきて、分厚い本を5万円程度で売りつけるという手口である。この種の行為については、法務省や中小企業庁が繰り返し注意喚起しており「対策セミナー」が毎年のように開かれているし、悪質なものは警察により摘発が行われることがある。
しかし、筆者が注目したのは、このようなあからさまな不当行為ではなく、半ば“お上”にも公認された利権として存在する、民間企業と運動団体との継続的な関係である。前述の「えせ同和」と呼ばれるものも、結局はそれを真似たものに過ぎない。何がえせで何が本物なのか、両者の違いに明確な境界線を引くのは難しい。例えば図書の売りつけにしても、多くの場合は法律上は全く正当な取引であって、ごく一部が脅迫であったとか、新聞をコピーしたものであるから著作権法違反であるといった理由で摘発されるだけである。もし同和にからむ図書の売りつけが全て犯罪であるなら、解放新聞を売るのも犯罪になってしまうだろう。
企業と同和との関係を解明する上ための端緒として注目すべきなのが、「同企連」あるいは「人企連」と呼ばれる団体である。例えば大阪には「大阪同和・人権問題企業連絡会」、愛知には「愛知人権啓発企業連絡会」、東京には「東京人権啓発企業連絡会」がある。同様の団体は他にも長野、滋賀、京都、兵庫、鳥取、香川、広島、福岡、千葉、埼玉に存在しており、それら13団体が連携して「同和問題に取り組む全国企業連絡会」(全国同企連)という団体を構成している(なお、全国同企連に加入していない同企連もあるので、同企連は13団体に限らない)。
混同されがちなものに「企業連」「企連」がある。例えば「部落解放大阪府企業連合会」「滋賀部落解放企業連合会」といった団体のことである。しかし、これらは同和対策の様々な優遇措置を受けるために、部落解放同盟と関わりのある同和関係者が経営する企業が集まって設立されたものである。当然、一般企業が加入することはできず、同企連や企業同推協とは全く違った性質の団体である。
一方、「企業同推協」あるいは「企業人権協」という団体がある(単に同推協、人権協と呼ばれることもある)。例えば「福岡市企業同和問題推進協議会」「大阪市企業人権推進協議会」などのことである。これらの団体は同企連と同じく一般企業により構成されており、その成立経緯も同企連に似ている。これらの団体について、詳しくはまた後で述べることにする。
さて、まずは同企連の歴史を通して、同和と企業の関係史をひもといていこう。
部落地名総鑑事件と同企連の結成
過去の歴史への反省と謝罪、そして賠償の無限ループと言うと、まるで日韓関係のようだが、企業と同和の関係にもそれは共通している。
同和と企業の関係を語る上で、「部落地名総鑑事件」は避けて通ることができない。部落地名総鑑は1975年3月ごろに東京で興信所を経営していた坪田義嗣氏により作成されたとされる、全国5360箇所の被差別部落の地名、世帯数、職業をまとめた本である。これが、企業の人事担当者向けに一部3万円で売られていた。
なお、坪田氏は兵庫県姫路市の出身で1920年生まれとされるが、事件の後の消息は分からない。
部落解放同盟中央本部が発行した「「部落地名総鑑」「部落リスト」差別事件 糾弾闘争の中間総括と今後の方向」(1977年3月9日)に当時の経過と関係資料がまとめられている。
発端は1975年11月に部落解放同盟大阪府連合会に匿名の告発投書があったことだ。翌月には東京法務局が乗り出して部落地名総鑑は回収、焼却された。そして、顧客リストを入手した解放同盟により、購入企業が次々と呼びだされ、糾弾された。並行して、大阪法務局からは「同和問題の理解と認識を高めるための万全の方策」を実施するように企業に対して行政指導がなされた。つまり、企業への糾弾は解放同盟と法務局が協同して行ったと言える。
大阪同和問題企業連絡会が発行した「足跡―この十年」(1988年2月22日)では、企業の担当者が当時の様子を生々しく証言している。
「法務局から調査された時に、うちは正直に「焼いてしもうた」と言ったんですが、それを証明するのがまた大変でねえ。ほんとうに苦労した。法務局は「じゃあ、その灰、持って来い」と言うんですよ(笑)。焼いたという証拠を出さなければならないんです」(関西ペイント 清水宣行氏)
このように、法務局による部落地名総鑑の回収は徹底していた。解放同盟だけなら企業も突っぱねることができたかも知れないが、行政も一緒に乗り出してきたとあっては、応じざるを得なかった。
当時の糾弾の様子も生々しく証言されている。その中でも特に壮絶だったのが北九州の「二泊三日の糾弾会」である。
「壇上にいる人たちは二日目くらいになってくるとウトウトとなる。すると「眠っとるのか」とやられるんですよ。ある会社の東京から来た人なんか部下を横においといてウトウトとなっちゃうわけですよ。
すると「立てェ!」と言われ、その部下に「お前の上司は眠っとる。どない思うか」と言うと「怪しからんと思います」と心ならずも言うわけですわ(笑)。また職安の人たちに「この企業のヤツら、怪しからんと思うやろ? こんなしょうもないもの買って……。腹立つやろ? アホ言うたれェ」と言うと、その職安の人がまた、糾弾を受けている連中に向かって「アホォ」と言うんですよ(笑)。まいったねえ、ほんとにまいった(笑)。」(同)
この北九州の糾弾会は企業関係者に知れ渡ったようだ。あくまで「糾弾は勉強の場」としていた部落解放同盟中央本部は北九州での糾弾を行った解放同盟福岡県連を批判し、大阪など他の地域での糾弾会では徹夜まではしなかったというが、壇上の企業担当者を差別者として吊るし上げるスタイルは大差なかった。
最初の部落地名総鑑がきっかけとなり、同時期、あるいは数年前から売られていた同様の書籍も問題とされ、それらは第2~第7の部落地名総鑑と言われた。当然、それらの書籍の購入者も糾弾された。
ところで、部落地名総鑑の「元ネタ」は1936年に中央融和事業協会が作成した全国部落実態調査報告書であるという。これに、坪田氏が図書館などで調べた情報を加えて完成した。
同様のものが「全国特殊部落リスト・全国左翼高校教諭リスト」(第2の部落地名総鑑)、「「新左翼」と「解同」(特殊部落)の全資料」(第3の部落地名総鑑)として発刊された。
さらに「大阪府下同和地区現況・大阪府下日共民青他全左翼組織一覧リスト」(第4の部落地名総鑑)という書籍も問題にされたが、これは実のところ部落解放同盟大阪府連合会が大阪府に出した解放同盟支部の一覧が元ネタになっていた。
しかし、1977年5月10日に部落解放同盟の関連団体である「社団法人部落解放研究所」の出版部門(現在の解放出版社)から発刊された「大阪の同和事業と解放運動」には、「大阪府下部落概況」として大阪府下の同和地区の地名、戸数、職業がリストとして掲載されている。
そのため、特に「第4の部落地名総鑑」に対しては企業側の反発もあった。特に日本生命は、部落解放同盟が作成した同和地区リストがそのまま使われたことを指摘し、「これは部落地名総鑑ではない」という趣旨の説明をしていたという。しかし「買った意図が問題」ということで、容赦なく糾弾の対象とされた。
さて、この部落地名総鑑事件の一連の糾弾が同企連の結成へとつながっていくわけだが、当時の時代背景がそれを後押しした。
1969年に同和対策事業特別措置法が制定され、国の同和対策事業が始まったが、この法律は10年間の時限立法であったため、1979年には期限が切れることになっていた。当然、解放同盟は期限の延長を望み、国への働きかけを行っていた。
1977年7月、解放同盟大阪府連は大阪の部落地名総鑑購入企業に対して「特措法の強化延長について企業の皆さんにご協力をいただきたい」という要請を行った。「協力」というのは、具体的には各企業の名前で各省庁への要請、集会の開催をするということである。
すると、集会への案内状を書く必要があり、ではどのような名前で案内状を書くかということで「同和問題企業連絡会」というはんこが作られた。これが同企連という名称の誕生の経緯である。そして、先のはんこの作成費用、集会の会場の費用がかかるということで、各企業から費用を徴収するために会計係が作られ、組織化された。その後、1978年2月22日に52社が参加して大阪商工会議所で最初の設立総会が開かれ、同企連が正式に発足した。
また同時期の1977年12月、当時の労働省が、100人以上の従業員を抱える事業所に「企業内同和問題研修推進員」を設定するように各企業に要請した。また、地方自治体によってはさらに小規模な事業所にも設置を要請するなど、より強い条件を付けるところもあった。
前出の「企業同推協」は推進員を設置する企業の連携のために設立された組織である。つまり、同企連は部落解放同盟が主導して設立された組織であるのに対して、企業同推協は官主導で設立された組織である。
企業内同和問題研修推進員制度は現在では「公正採用選考人権啓発推進員」と改称されて存続している。この制度はあくまで労働局が設置を要請しているだけのものなので、企業が設置する義務はない。しかし、特に解放同盟が強い地域では、現在でも多くの企業が設置しているのが実情である。
さて、発足当時の同企連の役員企業を見ると、ユニチカ、京阪電鉄、象印マホービン、日本生命、ダイキン工業など、関西の名だたる企業の名前が並ぶ。これほどの企業が集まればその利権たるや相当なものだろうと、企業の資金力の方に目が行がちである。しかし、発足当時の同企連の会費は1社あたりわずか1万円だったという。解放同盟にとっては、「金」よりも企業のブランドと、「人」が重要だったと考えられる。
1つの企業について見ただけでも、従業員数は本社だけでも何千人、子会社関連会社も含めると何万人という規模である。さらに下請け企業の従業員、従業員の家族も含めれば、膨大な数である。そして、企業の「人脈」も重要だ。大きな企業であるほど行政や政治との接点も多い。そのような企業が、部落地名総鑑を買ったという負い目により、意のままに動いてくれるのである。実際に特措法延長のための集会や署名活動に多くの企業関係者が動員され、省庁や政治家、政党への陳情に多くの企業が協力した。
例えば1981年には同和火災、住友電気、ダイハツ、小林製薬、関西電力、日本生命、ユニチカ、ダイキン、クボタ、住友商事、サントリー、近江屋、京阪電鉄、大同生命の担当者が特措法の延長を求めて自民党に要請活動を行った。これが実現できたのは当時自民党所属の参議院議員であった森下泰(森下仁丹社長。森下仁丹は「第6の部落地名総鑑」の購入企業である)氏のツテがあってのことである。
1985年には「部落解放基本法」の制定を求めて「全国キャラバン」が実施され、これにも多数の企業関係者が動員された。全国各地を徒歩で何十キロも行進し、地方自治体へ法律制定への協力を要請するというものである。同様の活動は1990年代にも活発に行われた。
一方、部落地名総鑑の購入者であっても、ごく小さな企業や個人は継続的に対応を求められることはなかったようだ。例えば、部落地名総鑑を個人で購入して顧客リストに掲載された数少ない一人である、伏見宰府氏から当時のことを聞くことができた。
伏見氏の場合、実のところ全く個人で買ったというわけでもなかったという。しかし、購入者リストには個人として載せられていたためか、糾弾会や法務局へは個人として呼び出されたという。
「2時間位の糾弾会に、2回出席しました。あとは、法務局へは1回だけ呼びだされて行っただけです。相手はもちろん私の会社のことは知っていて、会社にも連絡が来ましたが、会社側が継続して何かするということはなかったし、私が会社をクビになるとか、実害を受けることはなかったですよ。こうやって家まで来たのもあなた(筆者)が初めてです」
ちなみに、そもそもなぜ部落地名総鑑を買ったのか。それは単なる「興味本位」だという。
「亡き父から部落のことは聞かされたので…。地名総鑑事件の後は色々と悩みました」
一方、企業は何のために本を買ったのか? これは多くの場合「人事対策」のため、はっきり言えば就職差別のためである。しかし、ほとんどの企業担当者は「同和」とは何か理解していなかった。それでも部落地名総鑑を購入する企業があったのは、新左翼などの活動家対策のためであり、実際に部落地名総鑑もそのように銘打って売り込みがされていた。これを理解するためには、当時の時代背景を知る必要がある。
そもそも日本では、GHQ占領下の1952年までは「レッドパージ」(赤狩り)が公然と行われ、日本共産党の党員は公職や主要な企業から追い出された。これを政府が主導したことは本来は憲法違反であり、裁判も行われたが、「占領下に行われた超憲法的な措置」ということで結果的に追認されている。このように企業の人事における「思想による差別」は当たり前のことであり、司法も認めている状態だった(この状況は事実上現在も続いているので、過去形ではないかも知れない)。
1972年2月19日に「あさま山荘事件」が起こる。説明するまでもなく、これは新左翼の一派である連合赤軍が軽井沢のあさま山荘に人質を取って立てこもり、警察との銃撃戦になった事件である。この事件により、連合赤軍が仲間に「総括」と称して凄惨なリンチを加えて殺害していたことが明るみになり、それまでは世間から少なからずシンパシーを抱かれていた新左翼運動が支持を失い、新左翼=過激派との認識が広まるきっかけとなった。
1973年12月12日に「三菱樹脂事件」の最高裁判決が出された。これは憲法14条(平等権)は国と個人との関係を規律するもので、私人間に直接適用されることはなく、それゆえ法律による特別の制限がない限り、企業の経営者が誰を雇い入れるかは原則自由であるという趣旨の内容である。言ってみれば、司法が就職差別を容認したと取れる内容であった。(皮肉なことだが、三菱樹脂は現在では滋賀同和問題企業連絡会の会員である)
1974年11月22日、兵庫県養父郡八鹿町(現在の養父市)で「八鹿高校事件」が起こる。これは解放同盟兵庫県連の同盟員が、八鹿高校の教職員を監禁して暴行し、48名が重軽傷を負った事件である。このことは、特に関西地方を中心に同和=過激派との認識が広まる原因となった。
そしてその翌年に部落地名総鑑事件が起こった。第2~第4の部落地名総鑑はまさに「左翼」対策と一緒くたにしたものであったし、最初の部落地名総鑑も企業に送りつけられた売り込みチラシには「八鹿高校問題の様に暴力事件、リンチ事件が発生して社会的な問題となっています」との一文がある。また、第1の部落地名総鑑を作成した坪田氏自身も、解放同盟に対して「八鹿高校事件を知って部落地名総鑑が商売になると考えた」と語っている。
(第2回に続く)