部落解放同盟長野県連合会が発行した「差別とのたたかい」には、昭和38年に長野県が政府の委託を受けて調査した部落の一覧が掲載されている。部落の地名のみならず俗称までも掲載されている。当時は部落の地名について、タブーではなかったことがうかがえる。
その中でも目を引くのが、伊那市にある、俗称「後藤の衆」という部落だ。実際に電話帳や住宅地図で調べると「後藤」姓が多く存在する。部落が地名だけでなく、ここまではっきりと姓で呼び分けられている例は珍しい。
「後藤の衆」は、伊那市民にとっては知る人ぞ知る存在のようだ。年寄りの間でその用語は最近まで使われており、後藤君という人がいれば「あの人は“後藤の衆”だから」「最近まで、職場で“後藤の衆”の人と一緒に働いてたよ」といった用法だったようである。
部落問題については南信地方では「寝た子を起こすな」という考えが強いものの、校区に部落がある学校では特別な授業をやっているという。一方、未だに結婚に際しては徹底的に身元調査されることがあり、「在日」だったりかなり警戒されることは間違いないそうだが、「後藤の衆」だったらどうなるのかはよく分からない。
伊那市の部落の詳細は伊那市史から知ることが出来る。伊那市での同和行政の歴史は以外に古く、昭和28年のローカル紙(伊那タイムス)に「部落民は貧しく、卑しく、気が荒く、村民から恐れられている、凍り餅や干し柿を盗んだり、森林盗伐もする。同族結婚が多い」という趣旨の記事が掲載される等の「差別事象」があったことから、昭和34年から市が同和対策事業を始めたということだ。
先述の「特別な授業」について調べてみると、伊那市立手良小学校では部落解放同盟棚沢支部長の後藤一男氏が、「被差別部落の当事者に学ぶ機会を取る」ために教員に対する講演を行っている。そして、今年は部落解放同盟棚沢支部に42万円が支出され、他にも棚沢集会所の管理費、社会教育、生活指導といった名目で年に300万円程度が同和行政に支出されている。
南信地方でも、未だにこれだけの同和行政が行われていることは興味深いことだ。
これが、同和事業で作られた棚沢集会所。一部建て増しされた箇所があるが、伊那市史に掲載された写真そのままだ。
一見すると同和施設とは分からないが、中を覗くと「さべつをなくしあかるい未来」という手作りのポスターがある。この集会所には、伊那市から管理費として年間17万3000円が支出されている。
しかし、辺りを見渡せば普通の農村で、周囲の村と比べても何の違和感もない。違いと言えば、「後藤」という表札の家が多いくらいだ。
手良野口は萱野高原の麓の扇状地の傾斜地にある。伊那谷と南アルプスを見渡すことが出来る。
なぜ、「後藤」姓が多いのか、理由はよく分からない。伊那には「藤」のつく苗字は少ない。後藤とは藤原氏の後裔(子孫)という意味であり、もしかすると都から追放された貴族が起源なのかも知れない。
住民の1人である老人から話を聞くことができた。
「今はもう言う人はいないけど、ここは被差別部落だった。10年位前は12~3軒あったけど、今は7~8軒だけになってしまった」
このように、ここ最近のうちに、どんどん人が出ていってしまっているということである。これは部落に限らず、伊那市全体で過疎が進んでいる。伊那市の中心部はかろうじて活気を残しているが、それ以外は駅の近くであっても、廃墟となった商店が並んでいるような有様である。
「後藤と言えば藤原氏の子孫という意味だと思いますけど、実際に貴族と関係あるのですか?」
筆者がそう聞くと、
「さあ、親からもそういう話はないし、どういう由来か聞かされたことはないね。伊那では後藤という姓はあんまりないよ」
という答えだった。残念ながら後藤の由来は分からなかった。
部落にはいくつか墓地がある。伊那市史には住民の協力が得られれば墓地を1か所にまとめたいといったことが書かれているが、結局まとめられなかったようである。こちらの墓地には古くからの庚申塔があるが、後藤と他の姓の墓が混在している。
一方、こちらの墓地は後藤だけであった。墓石には屋号が書かれており、姓だけでは分からないので屋号で呼び分けていることが伺える。