浪速地区では、公共施設が異常に豪華である。もっとも、その多くは取り壊されてしまったが、身近なところで残っているものも多い。例えば歩道橋がそうで、1975年の『同和地区精密調査報告書』によれば同和対策で4基の歩道橋が設置されたとされる。
その1つがこの歩道橋。かつてはここに、「部落解放基本法を制定しよう」であるとか「石川さんを返せ」といった類の横断幕が掲げられていた。
同和対策の作業上のほとんどは取り壊されてしまったが、この浪速第7作業場はまだ残っている作業上の1つである。ほとんどは空き部屋だが、一部は使われており、この日も革の加工作業の真っ最中だった。
ここにも立派な歩道橋が。
歩道橋の上からは作業場や市営住宅が見える。
この浪速第4保育所は1971年に建設された。しかし、今では閉鎖されている。
さらに、リバティおおさかの西側の地域を目指して歩き、浪速神社にたどり着いた。
一見普通の神社だが、敷地内には不思議なものを見ることができる。
玉垣に刻まれた「浪速支部行動隊」の名前。浪速支部というのは部落解放同盟浪速支部という意味で、行動隊というのは文字通りの意味だろう。
他に、解放同盟西成支部や浴場の運営委員会、芦原病院の名前まである。
社殿をよく見ると…
部落解放同盟と同和事業浪速地区協議会の名前が。
ここにも。
そして、こんなところにも。
この祠の屋根は設置者が不明で、大阪市が困っているようである。
これは芦原橋の石柱と、日蓮宗の供養塔だろうか。
昔は船着き場があったという絵図。
高架下の駐車場。かつては、同和事業浪速地区協議会が大阪市から管理を委託されていた。その駐車場の収益がどうなっていたか、飛鳥会事件を知っている人は察しがつくだろう。小西邦彦はやりすぎた、ということだ。
再び目前に現れた立派な歩道橋。
上に登ると、時計台が2つある巨大な建物がある。実はこの建物こそ、同和対策で作られた、かつての栄小学校なのである。
1975年の『同和地区精密調査報告書』によれば、教室数84、うち普通教室32、講堂・体育館・食堂・プールを含むとある。当時の児童数が647名なので、1教室30名としても計算が合わず、異常な規模である。しかもその後は少子化などで児童数は減る一方で、90年代には児童数が300名くらいになり、末期には50人くらいだったという。出来た当初から最後まで、空き教室だらけだったのである。
そのようなオーバースペックな学校は、誰のためのものだったのか。子供のためではなく、土建屋の大人のためであったことは明白だ。
しかし、作ってしまったものはしょうがないので、現在は大阪府立難波支援学校という、小学校から高校まで一貫の特別支援学校として活用されている。大阪府各地の特別支援学校を集約した、巨大特別支援学校である。
これは芦原自動車教習所。同和対策の自動車教習所である。同和対策が行われていた時期、浪速地区の住民ならわずか3000円で免許が取れた。さらに、新大阪タクシー(同和地区の雇用促進対策のためにタクシー会社)に就職しやすくなるという特典もあったという。
無論、今となっては普通の自動車学校だ。
業者によるボーリング調査が行われている最中のこの空き地、ここには解放同盟大阪府連の拠点である部落解放センターがあった。現在は解放同盟大阪府連は港区波除のHRCビルに移転している。
こちらはテクノセンター芦原と、A’ワーク創造館。これも同和対策の職業訓練施設である。
浪速地区の北西の端からは、芦原公園と、木津川沿いの事業所群が見える。どちらとも、同和地区外である。
以前の部落探訪を見れば、隣同士の部落なのに、西成地区と浪速地区は全く様相が異なることが分かる。同じ大阪市内であっても、同促や解放同盟の支部が違えば、そのことがここまで影響するのだ。また、西成は大規模な住宅密集地があり、未だ改善が達成されておらず、貧民街というイメージが残っていることが浪速とは大きく異なる。
浪速地区に同和事業は必要だったのか。筆者の出した結論は「浪速の同和事業は不要であったどころか、むしろあるべき地域の発展を遅らせた」ということである。浪速地区は交通の便がよく、同和施設を廃止した途端に住宅地としても商業地としても急速に発展し始めているいることがそのことを証明している。
もし、同和地区指定しなければ、同じ浪速区内の「部落」であった日本橋のように、高度成長期・バブルを経て、特色ある街として発展していたことだろう。そして、同和事業に振り向けた予算を、西成の不良住宅地改善に集中投下すれば、また違った未来があったかも知れない。
無駄な努力をしたものである。
ここは市営第二住宅の跡地。「ここは住宅地域です」とあるが、その住宅はもうない。この土地もいずれ民間に売られ、マンションか建売住宅か、あるいは商業施設になるのだろう。
浪速のことも夢のまた夢。