アイヌの側から旧土人保護法存続を求める声が
しかし、今現在も残るアイヌ優遇策の起源をさらにたどっていくと、同和対策とは異なるものに行き着く。アイヌ優遇策のそもそもの起源は、1899年に制定された北海道旧土人保護法である。
ご存知の通り、旧土人保護法は1997年にアイヌ文化振興法が制定されるまで残されていた。今の時代の感覚で、法律の名前から受ける印象だけで判断してしまえば「こんなアイヌを差別する法律をずっとそのままにしていたのは国会の怠慢だ!」と思ってしまうかも知れない。
しかし、法律の名称に「保護法」とある通り、旧土人保護法はアイヌを優遇する法律である。15年以内に開墾しない場合は没収されるなど様々な条件付きではあったが、農業を営むアイヌに15,000坪までの土地(給与地)を無償で与えるという内容であったことは、比較的よく知られている。
この土地の広さを今の単位に換算すると約5ヘクタール。ちょうど東京ドーム1個分程度の広さである。大変な広さに感じられるかも知れないが、これは北海道の農地の大きさとしては標準的なものである(現在の農地法でも、北海道に限っては農家の最低経営面積は他の都府県の4倍の、2ヘクタールと定められている)。
また、法律の対象は正確にはアイヌではなく、「旧土人」であることにも注意が必要である。これは北海道の開拓前からの土着民という意味であり、実際に当時北海道に土着していたのはアイヌに限らない。しかし、後に旧土人とアイヌはイコールで語られるようになる。本稿でも便宜上、アイヌと言っておこう。
土地の給付だけでなく、法律が出来た当初は、貧困者であるアイヌには農具、医療、教育などのための給付を行うことが定められていた。1937年には、不良住宅の改良、アイヌを保護するための施設を設置する条文が追加された。「アイヌを保護するための施設」というのは、要は現在の生活館のことである。今の「アイヌ利権」に通じるのは、これらの規定である。
しかし、1946年には貧困者に対する給付に関する条文のほとんどが削除されている。これは、同年に生活保護法が施行されて、アイヌ限らず貧困者に対しては特別の措置が取られるようになったためだ。つまり、「一般対策化」されたわけである。
ただし、この時は教育に関する給付に関する条文だけは削除されず、1968年になってようやく生活保護法によって手当できるようになったという理由で削除されている。また、同時に旧土人保護法から不良住宅の改良の条文が削除された。これは1960年に住宅地区改良法が制定され、不良住宅の改良も一般対策として行われるようになったことが関係しているだろう。
結果として、生活館に関する条文が法律の廃止まで生き続けることになった。
旧土人保護法の廃止が本格的に提案されたのは、1970年のことである。同年6月5日に北海道下の市長による全道市長総会で旧土人保護法廃止の提案が当時の五十嵐広三旭川市長から出され、全会一致で採択された。
しかし、当のアイヌの側から廃止を望まないとする意見が多くあり、その理由も様々で、議論は紆余曲折した。名前からしていかにも時代遅れな法律が、これほど長い間廃止されなかったのはこのためである。
同年6月14日の北海タイムズによれば、当時札幌テレビ放送で旧土人保護法の存廃をめぐる討論番組が収録され、様々な意見が出された。
行政側の立場からすると、旧土人保護法廃止でほぼ意見が一致していた。
その理由の1つは、やはり差別的であるということだ。例えば、土地の扱いに関する制限がアイヌに対する差別であり、憲法違反と考えられること。優遇策についても逆差別であり、生活保護制度等で平等に措置できるので、アイヌだけに特別の施策は不要であることが主張された。
また、法律の条文の多くが事実上死文化しているという批判もあった。例えば、戦後はアイヌに対する土地の給付が行われなかったため、もはや給与地の没収はない。給与地の利用に関する様々な制限も、1937年の改正で事実上取り払われている。
ただし、土地の譲渡に関してだけ、北海道庁長官(1947年に北海道庁が廃止されて以降は北海道知事)の許可が必要という条文だけが残った。しかし、大正時代には既に、名義を変えずに給与地を事実上他人に譲渡してしまう行為が横行していたと言われており、戦後のGHQ占領下時代には農地改革によって全道の給与地の約4分の1が強制的に買い上げられた。
一方、主にアイヌの側から出た、旧土人保護法廃止を望まない理由は、アイヌのための生活館や低家賃住宅が多数設置されており、こうした優遇策を放棄する必要はないということだ。
1970年6月17日、北海道ウタリ協会(現在の北海道アイヌ協会)は旧土人保護法廃止反対を決議した。その後、ウタリ協会は、アイヌ政策に関する新法(ウタリ協会新法)の制定を求めて動き出し、新法制定までは旧土人保護法をそのままにするべきだと主張するようになる。
当然、その理由は旧土人保護法廃止によって現状の優遇策の根拠がなくなることを危惧したからだ。また、後には「差別的な法律を政府が制定した証として、新法制定までは土人という名前を残す」といった趣旨の主張もされた。
同和対策とアイヌ対策が連動
1970年と言えば、前年の1969年7月10日に同和対策事業特別措置法が成立している。この、同和に絡む動きが、アイヌにも影響したことは間違いない。
ウタリ協会の機関誌「先駆者の集い」(第40号、1985年8月31日)に「ウタリ協会新法(案)策定決議に至るまでの経過」がまとめられている。
それによれば、1969年に自民党の秋田大助衆議院議員がウタリ協会の野村義一理事長と面談し、同和対策事業特別措置法について、附則にアイヌにも準用すると入れたいので、緊急に意見を聞きたいとの申し入れがあったとされる。
具体的な日付は書かれていないが、同年に同法が制定された7月10日よりも前であり、しかも条文に押し込めるギリギリの時期だったことは間違いないだろう。秋田大助氏と言えば、自民党の中でも特に同法の制定のために尽力した人物である。
それを受けてウタリ協会は当時の町村金五北海道知事に意見を聞いたところ、「同和問題とアイヌ問題は本質的に異なる」のだから、同法の附則にアイヌを加えるべきではないと回答があった。その代わり、町村知事は北海道としてアイヌへの対策を行うことを検討すると確約した。そして、ウタリ協会は秋田議員に対して町村知事の意見通りの回答をした。
これはウタリ協会が同和対策と同様の特別措置を拒否したわけではなく、あくまで別の形での特別措置を求める予兆であり、自民党側にもそのための用意があることを示唆していた。
1971年、ウタリ協会は「ウタリ福祉基金」を創設する構想を打ち出した。これは、ウタリ協会、北海道、国が3分の1ずつ負担して3億円の基金を設立するものである。同年5月26日にウタリ協会の野村理事長らが、このことを直接佐藤栄作首相に陳情している。
このウタリ福祉基金は1982年頃まで存在し、有志により基金が集められていたことが「先駆者の集い」に書かれているが、その後、その話題は出てこなくなった。アイヌ協会によれば、結局ウタリ福祉基金は目的を達成できないまま、全額を当時のウタリ協会に寄付するという形で精算されたという。
1974年から「北海道ウタリ福祉対策」という7ヵ年計画が道により作成され、アイヌ対策のための特別な予算が組まれた。例えば、現在でも続いている住宅資金の貸し付け、進学奨励金、農林漁業対策などの事業はこの頃から始まっている。そして、1976年からは、多くの事業に国からも予算が支出されるようになった。現在も国から支出されているアイヌ対策予算は、全てこの頃から続けられているものである。
北海道ウタリ福祉対策はその後第4次計画までが行われ、国の同和対策事業の終了に合わせたかのように、2002年に一度終わった形になっている。しかし、「アイヌの人たちの生活向上に関する推進方策」と名前を変えて継続され、現在も続いている状況だ。
しかし、これでもアイヌ対策の規模は同和対策に比べればはるかに小さなものだった。例えば1977年に全国市長会がまとめた資料によると、1976年度の同和対策予算額は全国で2116億7000万円にものぼる。その後も、この規模の予算が毎年計上され続けた。
それに比べて、アイヌ対策の予算は、最盛期の1981年でさえ13億5643万円で、他の年も大差ない。同和対策に比べれば桁違いどころか2桁も違う。かたや全国で行われている事業、かたや北海道だけでの事業ということを考えたとしても、あまりにも差が大きい。
ただ、この予算規模であっても同和対策で起こったのと同様の問題が北海道でも起こっていた。特に深刻だったのが、住宅の新改築に対する貸付金が返還されないという問題である。当初は全く無担保で貸し付けていたのだが、さすがに1980年頃からは、住宅に対して抵当権を設定するようになった。
同和対策においても、「これは過去の差別に対する代償だ」といった考えから意図的に貸付金を踏み倒す行為が横行したのだが、さすがに問題視されて抵当権を設定するようになったのがこの時期である。そこで、アイヌ対策も同和対策にならったものと考えられる。
1985年のデータでは、多くの支部では9割以上が償還されていたのだが、弟子屈町、標茶町、千歳市では6~7割程度と極端に低く、釧路市に至ってはわずか3割と異常な状態だった。この時期、「先駆者の集い」は毎年のように貸付金を返すように呼びかけを行っている。
1982年には、今まで給付金だった大学入学者への修学資金が貸し付けとなった。これも、同和対策において給付が貸し付けに変更されたことにならったものである。しかし、この件について協会は「このことについては、文部省・大蔵省に何回もお願いしましたが、結果的には北海道のウタリに関しては返済しなくてもよいという腹がまえがあるようです」(「先駆者の集い」(38号、1983年7月15日))と説明している。実際、貸付金となった後もほとんど給付金のような状態だったことは前述の通りである。
さて、1981年には、このような同和対策との格差について、ウタリ協会の会員から不満が出始めたという。その理由として、同和対策は法律が制定されている一方で、ウタリ対策には法律がないためであり、新法の制定の必要性が認識されるようになった。
一方、「先駆者の集い」40号の中では、ウタリ協会の総会で次のようなやりとりがあったことが記されている。
苫小牧支部から「国民的批判をうけている同和の運動団体があると聞いております、しかし、それらの団体の要請をうけて対応している状況の中、協会の運動自体が誤解をうけたり、支障をきたしたりする問題も出てくると思います」という意見が出された。
それに対して、野村理事長は「同和関係団体の対応については当初から色々な状況があるということも存じておりましたし特定のイデオロギーや団体に組するという考えも持っておりません」と答えている。
また、同和問題とは違い、アイヌについては民族存続の問題なので、同和対策のように時限立法にすることは間違いだということも指摘された。
ここに出てくる「国民的批判をうけている同和の運動団体」というのは、要は解放同盟のことである。この議論が行われた翌年の1986年に、政府が設置していた審議会である地域改善対策協議会が内閣総理大臣に対して、「行政の主体性の欠如である。現在、国及び地方公共団体は、民間運動団体の威圧的な態度に押し切られて、不適切な行政運営を行うという傾向が一部にみられる」「何が差別かということを民間運動団体が主観的な立場から、恣意的に判断し、抗議行動の可能性をほのめかしつつ、さ細なことにも抗議することは、同和問題の言論について国民に警戒心を植え付け、この問題に対する意見の表明を抑制してしまっている」といった内容を含んだ意見具申を行った。特定の団体を名指ししたものではないが、明らかに解放同盟を念頭に置いたものであったので、これに対して解放同盟が激しく反発した。当時はそのような時代である。
1988年の「先駆者の集い」48号でも、「ウタリ協会が、部落解放同盟の事業などに積極的に入っていくことは良いことなのかな? アイヌ新法の制定に影響しないかな?」という会員の声が紹介されている。
そういった会員の心配をよそに、アイヌ協会は解放同盟との関係を深めていく。
(次回に続く)