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北海道アイヌ探訪記(10)アイヌ民族否定論

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アイヌ研究者・河野こうの本道もとみち

2015年3月2日、河野本道氏が亡くなった。旭川の川村兼一氏が名前を挙げていた、アイヌ民族の否定論者である。

実は筆者は2014年9月に氏に会っていた。今思えば、生前にもっと聞くべきことはあったが、後悔先に立たずである。

場所は北海道大学の近くで、河野氏行きつけの喫茶店。河野氏はそこでは先生と慕われていた。

「2008年6月6日の、アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議、あんなものは無効ですよ」

河野氏はそう主張する。河野氏の父親の河野広道ひろみち氏も著名なアイヌ研究者であり、まさに研究者の家系である。北海道各地にあるアイヌに関する博物館に、図書室のようなところがあれば、今でも必ず河野親子のどちらかによる研究書を見ることができる。

河野氏はアイヌ協会でアイヌの歴史を長らく研究していたのだが、アイヌ民族否定論を主張したことで、アイヌ協会を追い出されてしまった。それだけでなく、河野氏はアイヌ研究界でも孤高の存在となった。

なぜこのようなことになったのか。河野氏によれば、事実に基づいて研究をすれば、そのような結論にならざるを得ないという。

「そもそも、人種というような概念は人類学的には否定されています。血でアイヌを定義することはできません」

例えば、体毛が濃いというアイヌの特徴に関して言えば、本州以南でも体毛が濃い人はいるし、アイヌには体毛の薄い人もいる。ただ、北に行くほど体毛の濃い人が多いという傾向があるだけであって、体毛の量でアイヌかそうでないかといった分け方は出来ないというのだ。

河野氏によれば、北海道は人間が快適に暮らせた北限であるという。そして、日本列島は大陸の東の端にあり、それより先は太平洋によって阻まれている。そのため、アイヌには大陸からやってきた人の様々な血が混じりあっているという。

また、文化的にも決して孤立していたわけではなくて、有史以前から本州との交易や人の移動があった。使用していた道具、武器も交易で手に入れたものだし、アイヌの楽器として有名な「ムックリ」も東アジアの民族全般に見られるもので、アイヌ固有ではない。本州から津軽海峡を渡って住み着く人も多くいた。

「アイヌが和人に土地を奪われた」ということも、河野氏は次のように否定する。

「アイヌの人口は近世の終わりまでほとんど変わっていなくて、2万人くらいです。それだけの人口を北海道の沿岸に並べたらどうなるか、検証してみたの。土地も資源も有り余るほどありますよ」

つまり、そもそもアイヌは土地を所有するという概念を持つ必要がなかった。よく言われる「アイヌは自然を大切にしてきた」という考えも、アイヌが積極的にそれをしてきたというより、単に自然を壊せるほどの数も力もなかっただけのことである。

ただ、これだけは北海道のアイヌ固有の文化だと河野氏が主張するのが、「アイヌ紋様」である。

「あれは、もともと単なる網目模様だったのが、渦を巻くように変わってきたんですよ。これは私が証明しました。アイヌ紋様は1000年以上の歴史があります」

河野氏は自慢気に話す。

「ラーメンの丼の模様とは違うんですか?」

と筆者が問うと、「違います。ラーメンの丼は反対方向に巻いているけど、アイヌ紋様は同じ方向に巻いてるでしょう。これは、紋様の成り立ちが違うからなんですよ」と河野氏は妙に熱っぽく語った。

工芸家・砂澤すなざわじん

筆者が河野氏に会うことになったのは、砂澤陣氏の紹介があったからである。砂澤氏はアイヌの著名な芸術家、故・砂澤ビッキ氏の息子であり、砂澤氏自身は工芸家である。

砂澤氏は、知る人ぞ知るアイヌ協会批判の急先鋒である。そのため、砂澤氏もアイヌ協会を除名された。

アイヌ協会に所属するアイヌに砂澤氏のことを聞くと、決まって「あいつはヤクザだ」とか「右翼だ」といった返事が返ってくる。アイヌ協会を批判するだけでなく、本人も言うとおり、過去にあまり素行がよくなかったことと、体に刺青を入れていることから、そう言われるのだろう。

砂澤氏の主張は、アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議、そして白老の民族共生の空間の建設など一連の動きは「日本人分断工作」ということである。

「利権とかなんとかじゃなくて、完全な分断工作だよ。国連で先住民族決議というのをやって、それを受けて国会で決議をやっちゃったでしょ」

砂澤氏自身、アイヌの家系ではあるのだが、それはそれとして自分の帰属意識は日本にあるという考えだ。砂澤氏が許すことが出来ないのは、アイヌの文化や歴史が歪められていることだ。

砂澤氏は、マタギの文化と変わらないものがアイヌの文化として紹介されたり、明治以降に作られたようなものまでがごっちゃにされたりしていると指摘する。

例えば、イヨマンテにしても砂澤氏によればマタギの儀式だ。あれは狩猟の練習のようなものであるという。

アイヌ工芸も大正時代にスイスで作られていた熊の木彫を真似て作ったのが始まりで、アイヌの文化とは関係ない。特に、砂澤氏にとって不愉快なのは、時々父のビッキ氏の作品がパクられていることだ。

アイヌの道具として博物館で展示されているものも、ほとんどは和人から買ったものだ。アイヌの神話や伝承というのも実はほとんど残っていないので、それでは足りないから新たに作るために一般からストーリーを募集することまでやっている。

確かに、筆者がアイヌの博物館や観光施設を巡ると、そういったものが見受けられた。そもそも、アイヌは文字を持たないし、物事を後世に遺すという概念が乏しかったのではないかと思えるところがある。

「でも、この際ファンタジーはファンタジーだとはっきり言って、エンターテインメントとして楽しむならいいのでは?」

と筆者が問うと、「俺は絶対関わりたくない。気持ち悪いから」と砂澤氏は苦笑いした。

現在、アイヌの文化とされているものの多くが作り物に過ぎないということは、観光に関わる利権の問題で、要は金の問題である。しかし、砂澤氏がさらに深刻だと指摘するのは、「差別」にからむ問題と、歴史の捏造である。

砂澤氏も自分の子供の頃の経験から、アイヌに対する差別があったことは否定しない。今でもアイヌの衣装を着て街を歩いたら、馬鹿にされるだろうと言う。その反面、父のビッキ氏はアイヌであっても作品の価値を正当に評価されたし、砂澤氏も職人としての自負がある。

「一番たち悪いのは、周りに持ち上げられることで自分が強くなったと勘違いしてさ、それが慢性化してそこにお金が落ちる。差別されてないのに、自分が差別されていると言って自分が高揚している人が凄い多いんだよね。ちょっとのことを大げさに言って、弁論大会に出て、それで賞をもらうでしょ」

奇しくも2014年9月と言えば、いわゆる従軍慰安婦問題で朝日新聞が「済州島で朝鮮人を強制連行して慰安婦にした」という趣旨の過去の記事の誤りを認めたことが大きな話題となった。アイヌの歴史についても、共通の問題があるという。

国連や国会における、アイヌを民族と認めるという動きには、日本政府がアイヌに対して民族浄化や文化殺戮をやったという考えがセットになっており、砂澤氏はそこが大きな問題なのだという。

「やんわりと馬鹿にされているんだよ。北海道の開拓の歴史は、侵略の歴史だと。そこに怒らないのであれば、右だろうと左だろうと、国に対する帰属意識だとか、誇りだとか言う資格はない」

この点は、筆者は概ね正しいと思っている。

少なくとも明治以降、日本政府によってアイヌに対する民族浄化が行われたと本気で主張する人はいないだろう。しかし、文化殺戮についてはしばしば言われることがある。日本政府によってアイヌの文化が奪われた、アイヌ語を奪われたという主張である。

例えば、1999年12月7日に開催された法務省の人権擁護推進審議会で当時のアイヌ協会の笹村ささむら二朗じろう理事長が、「アイヌ語使用の妨げと、日本語使用の強制、独自の風習の禁止」が明治政府により行われたと主張している。

しかし、そのような行為を政府がアイヌに対して積極的に行ったという根拠は見つけられなかった。例えば、狩猟の制限は人口が増えればどうしても必要なもので、むしろやらなければ長期的には狩猟自体が出来なくなってしまうものだ。茅葺きのチセを作るなということも、人口が増えてチセが密集すれば防火上非常に危険なことになるので、避けられないだろう。

逆に、文献を当たると、当時の日本政府はアイヌの文化を出来る限り尊重していたように思われる。例えば1934年に作られた「アイヌの犯罪について」という司法レポートには、次のようなエピソードが書かれている。

あるアイヌが汽車の中に置かれていた他人の荷物の中身を確認しようと、マキリ(短刀)で荷物の紐を切った。そのことで、彼は窃盗未遂に問われ裁判にかけられた。しかし、判決は無罪であった。なぜなら、当時アイヌがマキリを持ち歩いて、安易な使い方をすることは当たり前のことで、紐を切るのは紐をほどくのと同じ感覚である。よって、本当に単に荷物の中身を見たかっただけで、悪意があったとは考えられないという判断である。

だから、アイヌに対して法律を運用する時は、彼らの風俗と習慣を考慮しなさいというのがこの本の趣旨である。

また、アイヌは男性であれば自分の財産を誰も知らない場所に隠して、死後もそのままになってしまうということがよくあったという。また、家は女性のものという考えがあり、女性が亡くなると家を燃やすという習慣があったという。博物館や文献などでアイヌに関するそういった記述を目にすると、前述の通り、そもそもアイヌは後世に何かを遺すということに無頓着だったのではと思ってしまうのだ。

それに、和人から漆器や刀を買い入れてきた人たちが、和人が洋服を着たり自動車に載ったりしているのをはたから眺めるだけで、古くからの生活を変えないということは、とても想像できない。

そして、アイヌ語に関しても、禁止されたという根拠はどこにもなく、むしろ北海道各地の地名としてアイヌ語が残っている。

ちなみに前出の審議会で阿部ユポ氏は「道路標識にしても地名表示にしても、アイヌ語の表記というのは日本にはないわけであります」と発言しているが、そのそもアイヌ語には文字がないのだから、もし「アイヌ語に当て字をしたものはアイヌ語の表記ではない」と言うのであれば、それでは何だったらアイヌ語の表記と言えるのかということになってしまうだろう。

一方、現代ではテレビもラジオもほとんど標準語で、公式な文書は標準語で書くことを半ば強制されているのに、津軽弁や琉球方言のような標準語とかなり違った言葉が今でもしっかりと残っている。この違いをどう説明するのだろうか。

結局、昔から北海道で自由気ままに暮らしてきたように、自分たちが今置かれた状況に合わせて臨機応変に変わっていくこと自体がアイヌの文化だったのではないだろうか。

(次回に続く)


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