もっともらしいが大した意味はない言葉を指して、「バズワード」ということがある。よくIT業界の営業トークで使われて、一昔前なら「Web2.0」最近なら「AI」が代表的なバズワードだろう。
政治の世界にもバズワードがある。「ヘイトスピーチ」「アウティング」等がそうだろう。陳腐な意見であっても、それらの言葉を使うことで、何となく説得力があるように思わせる効果がある。
「相対的貧困」はバズワード?
「相対的貧困」はどうだろう。
平成27年3月に神奈川県が作成した「神奈川県子どもの貧困対策推進計画」には「平成26年7月、実に6人に1人の子どもが「相対的貧困」、つまり、普通の生活水準の半分以下の所得水準での生活を余儀なくされている」と説明されている。このように相対的貧困とは、平たく言えば「普通の生活水準の半分以下の所得」ということで定義されている。これは世帯の手取り収入と、世帯人員を基準に判断される。
そう説明すると、明確な基準があるように見えるが、この基準が本当に「貧困」を判断する基準になるのかというと別問題である。例えば「普通の生活水準」を全国を基準とするのか、各都道府県を基準とするのかで大きく違う。例えば、東京都と沖縄県では平均所得に2倍以上の差があることが知られている。また、同じ収入でも都市部と農村では物価が違うのだから、実感としての生活水準は異なるだろう。また、住居が賃貸か持ち家か、同じ持ち家でもローンを抱えているかによって大きく違う。世帯人員が同じでも、高齢者や病人を抱えていれば介護費用や医療費の負担が大きくなる。
そもそも「相対的貧困」とは世帯についての基準なので、「子どもの貧困」を判断するための基準ではない。世帯収入と人員が同じでも、親が浪費家なのとそうでないのとでは、子供にとっては大きく違う。
すると、少なくとも「子どもの貧困」に関して使われる「相対的貧困」という言葉は一種のバズワードではないかというのが筆者の疑うところである。
バズワードのやっかいなところは、その言葉について疑問を提起することを萎縮させ、思考停止に陥りさせてしまうことだ。裸の王様よろしく、疑問を提起することで「バカだ」とレッテルを貼られかねない。
例えば現代ビジネスの『「貧困女子高生」バッシングの無知と恥〜「ニッポンの貧困」の真実』といった記事に見られるように、「相対的貧困」を理解しない人が無知なんだといったメディアの論調がある。しかし、仮に相対的貧困とは「等価可処分所得の中央値の半分に満たない世帯員」であると理解したからと言って、それで「子どもの貧困」について理解できたと考えるのは無理があるだろう。
貧困や格差を測る基準は他にも複数ある。例えばエンゲル係数、ジニ係数、1人あたりGDPといったものだ。しかし、いずれも国民の生活習慣の違いや、物価の違い(例えば工業製品が高く食料品が安い国もあれば、その逆もあるなど)の影響を大きく受けるので、単に1つの統計値を見て貧困の度合いを判断できるものではない。さらに、繰り返しになるが、ことさら「子ども」に関係するものではない。
政策を進めるにあたって、何かしら「もっともらしい」資料が必要で、たまたま「相対的貧困率」という数値が都合がよかったから、それを強引に「子ども」と結びつけてミスリードしているとしか思えないのである。
紙ペラ一枚の政策提案書
昨年行われた「かながわ子どもの貧困対策会議」の「子ども部会」、その成果として政策提案書が神奈川県知事に提出された。その内容を見たかったので、神奈川県子ども支援課の担当者に聞くと、「情報公開請求してください」とのことだった。そして、公開されたものがこちらである。
これだけのものなら、ウェブサイトで公開してもいいし、わざわざ情報公開請求の手続きをするまでもなく、メールかファックスで送ってもらえれば事足りるような気もするが…。ただ、紙ペラ一枚ということには拍子抜けした。しかも、行政機関が発した文書には必ず振られている発番も書かれていなければ、政策提案書と言う割には提案者の代表者名も書かれていない。内容については、「子ども部会」で子供から出された意見をまとめて箇条書きしただけのものだ。
“うららちゃん”騒動でミソがついたということもあるかも知れないが、そうでなくとも1年間の成果として発表するには少し恥ずかしい文書ではないかということは否めない。
気になったのは「子どもの貧困に対する誤った認識を変えるような対策」というものだ。「誤った認識」とは何で、何が「正しい認識」なのだろうか。
子供の個人情報に関わるので…
さすがに“うららちゃん”騒動を契機に様々な問題が噴出したためか、今年度は「子ども部会」は行われていない。子どもの問題とは言え、責任は大人にあるのだから、大人が解決すべきというのはまっとうな考えだろう。
今年の5月27日に行われた、本年度の第1回「かながわ子どもの貧困対策会議」では、県から「県民向けフォーラム」を開催することが説明された。ただ、「県民向け」とは言っても主に教職員等を対象としたものである。また「子どもの貧困問題」に対する調査を行うことにもなったが、これも対象者は子供ではなくて、子供に関わるスクールソーシャルワーカーや福祉関係の行政職員である。
「県民向けフォーラム」では「かながわ子どもの貧困対策会議」委員の立教大学コミュニティ福祉学部・湯澤直美教授による「「相対的貧困とは~子どもの貧困問題へのまなざし~」と題した講演が行われることになったが、この題名について当の湯澤委員等から苦言が呈された。もう「相対的貧困」という言葉は使わない方がいいのではないかということだ。
その理由は、「相対的貧困」とくに「貧困」という言葉が独り歩きして余計に誤解を生んでしまっていること、そして「相対的貧困」について平均的な所得の半分以下という定義があるものの、そのような線引きが本当に適切なのかということだ。生活保護世帯のような「絶対的貧困」も確かに存在するし、所得が相対的貧困の基準に当てはまらなくても問題を抱える子供は存在するのではないかといったことが委員からは問題視された。そして、神奈川県が公開している会議録の文面だけでは伝わらないが、会議では「もう相対的貧困という言葉を使うのはうんざり」という空気が漂っていた。
実際、子供の実情として会議で問題とされたのは「貧困」というよりは、もっと個別な子供の問題である。修学旅行の費用が払えない子供がいる、貧困というよりは親の素行に問題があるといった事例である。ただ、突っ込んだ内容になると「子供の個人情報に関わるので…」と委員が発言をためらう場面があり、なかなか議論は深まらなかった。
ただ、これからいわゆる「子どもの貧困」という問題をメディア等で目にするにあたって「貧困」という言葉にとらわれないことは重要だ。「アニメの専門学校に行きたい」「パソコンが買えないからキーボードだけ買った」といったことを「貧困」の事例と提示されても「おかしい」と思うことはある意味まっとうな感覚であって、実は行政は「貧困」とは別の「子どもが抱える問題」全般に取り組もうとしていると考えれば、あの報道も冷静に見ることができたのではないだろうか。
国が一律で号令をかけて行うことに無理があるのでは?
子供にからむ環境というのは、地方によって意外に違いが大きい。例えば神奈川県は私立学校が非常に多く、小学校にしろ中学校にしろ私立学校に通うことは特別ではない。しかし、これが地方によっては「私立に行くのは金持ちのボンボンだけ」「優秀な公立がいくらでもあるのだから私立に行くのは落ちこぼれ」という感覚の場合もある。「修学旅行の費用が払えない」という問題にしても、修学旅行の費用は特に私立であれば学校によって大きく違う。昨今よく話題になる「食育」の問題にしても、中学校以上でも給食が出るのが当たり前の地域もあれば、小学校以外では一切給食がでない地域もある。
神奈川県というのは全国的に見て典型的な生活環境にある県とは言えないので、“うららちゃん”の様な例を出しても、特に他の地方の人には理解されないのは当たり前だろう。
だた、神奈川県にも同情しなければならない部分がかなりある。これは2013年6月に国会で「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が制定されたことにより、地方が進めなければならないからだ。“うららちゃん”騒動の意味は、神奈川県の失敗というよりは、国の政策が初っ端から出鼻をくじかれたという意味もある。
神奈川県は、平成28年度に「子どもの貧困対策の取組み」として約707億円の予算を計上したが、実はそれらのほとんど全てが新規の事業ではなく、既存の事業を「子どもの貧困対策の取組み」としてカテゴリー分けしたに過ぎないものである。例えば、児童手当の地方負担分など、貧困や「相対的貧困」とは直接関係のない事業もこのカテゴリーに組み入れられている。新規の事業と言えるのは「かながわ子どもの貧困対策会議」の設置などにかかる840万円と「子ども・青少年の居場所づくり」と題した1,040万円だけである。とにかく「やっている感」を出すために努力をしたという風に見える。
具体性のない理念法に振り回されるのは、いつも地方の役人である。