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Channel: 宮部 龍彦 - 示現舎
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“うららちゃん”炎上で話題となった 「かながわ子どもの貧困対策会議」 (後編)「相対的貧困」とは?

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もっともらしいが大した意味はない言葉を指して、「バズワード」ということがある。よくIT業界の営業トークで使われて、一昔前なら「Web2.0」最近なら「AI」が代表的なバズワードだろう。

政治の世界にもバズワードがある。「ヘイトスピーチ」「アウティング」等がそうだろう。陳腐な意見であっても、それらの言葉を使うことで、何となく説得力があるように思わせる効果がある。

「相対的貧困」はバズワード?

「相対的貧困」はどうだろう。

平成27年3月に神奈川県が作成した「神奈川県子どもの貧困対策推進計画」には「平成26年7月、実に6人に1人の子どもが「相対的貧困」、つまり、普通の生活水準の半分以下の所得水準での生活を余儀なくされている」と説明されている。このように相対的貧困とは、平たく言えば「普通の生活水準の半分以下の所得」ということで定義されている。これは世帯の手取り収入と、世帯人員を基準に判断される。

そう説明すると、明確な基準があるように見えるが、この基準が本当に「貧困」を判断する基準になるのかというと別問題である。例えば「普通の生活水準」を全国を基準とするのか、各都道府県を基準とするのかで大きく違う。例えば、東京都と沖縄県では平均所得に2倍以上の差があることが知られている。また、同じ収入でも都市部と農村では物価が違うのだから、実感としての生活水準は異なるだろう。また、住居が賃貸か持ち家か、同じ持ち家でもローンを抱えているかによって大きく違う。世帯人員が同じでも、高齢者や病人を抱えていれば介護費用や医療費の負担が大きくなる。

そもそも「相対的貧困」とは世帯についての基準なので、「子どもの貧困」を判断するための基準ではない。世帯収入と人員が同じでも、親が浪費家なのとそうでないのとでは、子供にとっては大きく違う。

すると、少なくとも「子どもの貧困」に関して使われる「相対的貧困」という言葉は一種のバズワードではないかというのが筆者の疑うところである。

バズワードのやっかいなところは、その言葉について疑問を提起することを萎縮させ、思考停止に陥りさせてしまうことだ。裸の王様よろしく、疑問を提起することで「バカだ」とレッテルを貼られかねない。

例えば現代ビジネスの『「貧困女子高生」バッシングの無知と恥〜「ニッポンの貧困」の真実』といった記事に見られるように、「相対的貧困」を理解しない人が無知なんだといったメディアの論調がある。しかし、仮に相対的貧困とは「等価可処分所得の中央値の半分に満たない世帯員」であると理解したからと言って、それで「子どもの貧困」について理解できたと考えるのは無理があるだろう。

貧困や格差を測る基準は他にも複数ある。例えばエンゲル係数、ジニ係数、1人あたりGDPといったものだ。しかし、いずれも国民の生活習慣の違いや、物価の違い(例えば工業製品が高く食料品が安い国もあれば、その逆もあるなど)の影響を大きく受けるので、単に1つの統計値を見て貧困の度合いを判断できるものではない。さらに、繰り返しになるが、ことさら「子ども」に関係するものではない。

政策を進めるにあたって、何かしら「もっともらしい」資料が必要で、たまたま「相対的貧困率」という数値が都合がよかったから、それを強引に「子ども」と結びつけてミスリードしているとしか思えないのである。

紙ペラ一枚の政策提案書

昨年行われた「かながわ子どもの貧困対策会議」の「子ども部会」、その成果として政策提案書が神奈川県知事に提出された。その内容を見たかったので、神奈川県子ども支援課の担当者に聞くと、「情報公開請求してください」とのことだった。そして、公開されたものがこちらである。

これだけのものなら、ウェブサイトで公開してもいいし、わざわざ情報公開請求の手続きをするまでもなく、メールかファックスで送ってもらえれば事足りるような気もするが…。ただ、紙ペラ一枚ということには拍子抜けした。しかも、行政機関が発した文書には必ず振られている発番も書かれていなければ、政策提案書と言う割には提案者の代表者名も書かれていない。内容については、「子ども部会」で子供から出された意見をまとめて箇条書きしただけのものだ。

“うららちゃん”騒動でミソがついたということもあるかも知れないが、そうでなくとも1年間の成果として発表するには少し恥ずかしい文書ではないかということは否めない。

気になったのは「子どもの貧困に対する誤った認識を変えるような対策」というものだ。「誤った認識」とは何で、何が「正しい認識」なのだろうか。

子供の個人情報に関わるので…

さすがに“うららちゃん”騒動を契機に様々な問題が噴出したためか、今年度は「子ども部会」は行われていない。子どもの問題とは言え、責任は大人にあるのだから、大人が解決すべきというのはまっとうな考えだろう。

今年の5月27日に行われた、本年度の第1回「かながわ子どもの貧困対策会議」では、県から「県民向けフォーラム」を開催することが説明された。ただ、「県民向け」とは言っても主に教職員等を対象としたものである。また「子どもの貧困問題」に対する調査を行うことにもなったが、これも対象者は子供ではなくて、子供に関わるスクールソーシャルワーカーや福祉関係の行政職員である。

「県民向けフォーラム」では「かながわ子どもの貧困対策会議」委員の立教大学コミュニティ福祉学部・湯澤直美教授による「「相対的貧困とは~子どもの貧困問題へのまなざし~」と題した講演が行われることになったが、この題名について当の湯澤委員等から苦言が呈された。もう「相対的貧困」という言葉は使わない方がいいのではないかということだ。

その理由は、「相対的貧困」とくに「貧困」という言葉が独り歩きして余計に誤解を生んでしまっていること、そして「相対的貧困」について平均的な所得の半分以下という定義があるものの、そのような線引きが本当に適切なのかということだ。生活保護世帯のような「絶対的貧困」も確かに存在するし、所得が相対的貧困の基準に当てはまらなくても問題を抱える子供は存在するのではないかといったことが委員からは問題視された。そして、神奈川県が公開している会議録の文面だけでは伝わらないが、会議では「もう相対的貧困という言葉を使うのはうんざり」という空気が漂っていた。

実際、子供の実情として会議で問題とされたのは「貧困」というよりは、もっと個別な子供の問題である。修学旅行の費用が払えない子供がいる、貧困というよりは親の素行に問題があるといった事例である。ただ、突っ込んだ内容になると「子供の個人情報に関わるので…」と委員が発言をためらう場面があり、なかなか議論は深まらなかった。

ただ、これからいわゆる「子どもの貧困」という問題をメディア等で目にするにあたって「貧困」という言葉にとらわれないことは重要だ。「アニメの専門学校に行きたい」「パソコンが買えないからキーボードだけ買った」といったことを「貧困」の事例と提示されても「おかしい」と思うことはある意味まっとうな感覚であって、実は行政は「貧困」とは別の「子どもが抱える問題」全般に取り組もうとしていると考えれば、あの報道も冷静に見ることができたのではないだろうか。

国が一律で号令をかけて行うことに無理があるのでは?

子供にからむ環境というのは、地方によって意外に違いが大きい。例えば神奈川県は私立学校が非常に多く、小学校にしろ中学校にしろ私立学校に通うことは特別ではない。しかし、これが地方によっては「私立に行くのは金持ちのボンボンだけ」「優秀な公立がいくらでもあるのだから私立に行くのは落ちこぼれ」という感覚の場合もある。「修学旅行の費用が払えない」という問題にしても、修学旅行の費用は特に私立であれば学校によって大きく違う。昨今よく話題になる「食育」の問題にしても、中学校以上でも給食が出るのが当たり前の地域もあれば、小学校以外では一切給食がでない地域もある。

神奈川県というのは全国的に見て典型的な生活環境にある県とは言えないので、“うららちゃん”の様な例を出しても、特に他の地方の人には理解されないのは当たり前だろう。

だた、神奈川県にも同情しなければならない部分がかなりある。これは2013年6月に国会で「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が制定されたことにより、地方が進めなければならないからだ。“うららちゃん”騒動の意味は、神奈川県の失敗というよりは、国の政策が初っ端から出鼻をくじかれたという意味もある。

神奈川県は、平成28年度に「子どもの貧困対策の取組み」として約707億円の予算を計上したが、実はそれらのほとんど全てが新規の事業ではなく、既存の事業を「子どもの貧困対策の取組み」としてカテゴリー分けしたに過ぎないものである。例えば、児童手当の地方負担分など、貧困や「相対的貧困」とは直接関係のない事業もこのカテゴリーに組み入れられている。新規の事業と言えるのは「かながわ子どもの貧困対策会議」の設置などにかかる840万円と「子ども・青少年の居場所づくり」と題した1,040万円だけである。とにかく「やっている感」を出すために努力をしたという風に見える。

具体性のない理念法に振り回されるのは、いつも地方の役人である。


部落探訪(41)長野県伊那市手良沢岡下手良辻“西幅”

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以前、伊那市の“後藤の衆”を訪れたが、部落解放同盟長野県連合会が発行した「差別とのたたかい」によれば、その近くにはもう1つ部落がある。

それが、長野県伊那市手良沢岡下手良の「辻」あるいは「西幅」と呼ばれた部落である。1967年の記録では戸数29,1933年の記録では12戸だ。


さっそく訪れてみると、明らかに“後藤の衆”とは様相が異なる。


典型的な農村である“後藤の衆”に比べると、こちらは明らかに商工業の部落だ。

「辻」という名前のとおり、部落の中心には辻がある。バス停の名前も「辻」。石碑の「荒井先生」とは国文学者の荒井源司のことか。


伊那市史によれば昭和37年に共同井戸が、昭和52年に集会所が同和対策で設置されたという。

それらしき物がないか、しばらく探訪していると…

集会所らしき建物を見つけた。

地図には「辻第三公民館」とあるが、文字が消えかかった看板には「辻集会所」と書かれている。これが同和対策で作られた集会所であることは間違いない。

趣のある焼却炉。

そして石碑である。これは「西幅厚」という人物の功績を讃えたもののようである。「差別とのたたかい」に書かれた部落名と姓が同じであるところが興味深い。

周辺には廃墟もあるが、特に廃墟や空き地が目立つということはない。言われなければ部落とは分からない。

古井戸の残骸を見つけた。昭和37年に作られた共同井戸とは、おそらくこれのことだろう。

東京高裁第14民事部第1回審尋

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以前、横浜地裁相模原支部が解放同盟の片岡明幸副委員長を「被差別部落出身者」認定しましたが、それについて筆者が東京高裁に保全抗告しました。本日は、それについて審尋がありました。

筆者が提出した書面はこちらです。

保全抗告状C-H29-7-19.pdf
保全抗告理由書C-H29-8-4.pdf
証拠説明書C-H29-8-4.pdf

それに対する、片岡明幸副委員長側の答弁書がこちらです。

保全抗告答弁書-H29-8-22.pdf

あらましを言うと、地裁相模原支部の判決には、双方が述べてもいない、片岡明幸副委員長の出身地が全国部落調査に掲載されているということが書いてあったので、筆者が片岡明幸副委員長の実家の肉屋に訪れたら、片岡明幸副委員長が憤怒したという流れです。詳細は双方の書面をお読み下さい。

東京高裁の担当裁判官は、大須賀寛之裁判官です。審尋で裁判官は、同和ということには一切触れず、同和地区Wikiはプロバイダ責任制限法の特定電気通信に該当すると考えられるので、その点について双方が主張を補充して欲しいということでした。

そして、さらに審尋が継続されることになり、次回は10月19日10時に審尋が行われることになりました。

一方、全国部落調査の発禁を維持した東京高裁第9民事部の決定に対して次の通り許可抗告・特別抗告をしておきましたが…

抗告許可申立書A-H29-6-22.pdf
特別抗告状A-H29-6-22.pdf
許可抗告申立て理由書A-H29-8-16.pdf
特別抗告理由書A-H29-8-16.pdf

通例通り、許可抗告は不許可となり、特別抗告が最高裁に係属した状態になっています。

許可抗告決定A-H29-9-4.pdf

次のイベントは9月25日に14:00に東京地裁で行われる本案の弁論です。今回も傍聴券が配布されるので、傍聴希望者は13:40までに東京地方裁判所の正門に行ってください。

9月25日2時から東京地裁で第6回口頭弁論

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9月25日午後2時から東京地方裁判所で全国部落調査事件の第6回口頭弁論があります。今回も傍聴は抽選ですので、傍聴したい方は午後1時40分までに東京地裁の正門近くで傍聴券の交付を受けて下さい。

また、例によって午後7時30分からネット放送を実施します。あとで聴くこともできます。

原告、解放同盟側の書面はこちらです。

原告-準備書面4-H29-8-28.pdf
原告-準備書面5-H29-9-15.pdf

そして被告、示現舎側の書面はこちらです。

被告-準備書面-H29-8-28.pdf
被告-証拠説明書-H29-8-28.pdf

詳しくは、当日午後7時30分からのネット放送をご視聴ください。裁判の報告の他、部落探訪の魅力、奈良のあの事件についての話題を放送予定です。NHKの7時のニュースの後は、ぜひ示現舎チャンネルを。聴き逃ししても、あとで聴取可能です。

東京高裁第15民事部決定

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同和地区Wiki関係の仮処分について、去る9月28日付けで東京高裁の決定が出されました。結論から言えば、概ね発禁が維持されました。

決定の内容はこちらをご覧ください。

決定-H29-9-28.pdf

非常に分かりにくいですが、要約すると、同和地区Wikiについては既に存在しないので削除の命令は不要である一方、将来の公表を禁止。ミラーサイトあるいは同和地区.comについては誰がやっているのか分からないので仮処分の対象ではない、という内容になっています。

もっと分かりにくいのが発禁が維持される理由です。おそらく、肝になるのは以下の部分です。

抗告人は,個人相手方らに全国の津々浦々にある同和地区の地名の公開の是非を決める権利を認めながら,同じ同和地区出身者である抗告人の意志を尊重しないのは差別であるとも主張する。

しかしながら,個人相手方らにおいて,本件ウェブページ等の公表の禁止を求めることが認められるのは,個人相手方らに対し全国の各同和地区の地名の公開の是非を決める権利が認められるからではなく,本件ウェブ
ページ等は,そこに掲げられた全国の各地域をその個性にかかわらず,一律に同和地区として位置づけ,網羅的かつ一覧的に掲記するものであり,これが広く公表されたときは,我が国におけるこれまでの同和問題の経緯に鑑み,一般的に,個人相手方らを含む同和地区出身者に対する差別的な感情を招来し,助長するおそれが高いことを理由とするものである。その一方で,上記のように解したとしても,抗告人において,同和地区の地名を無理に隠すのは誤りであるとの見解に立ち,自己の出身地の歴史や政治的背景を研究し,発表すること自体が制限されることになるものではない。

そうすると,本件ウェブページ等の公表によって生ずる個人相手方らの上記不利益と公表の禁止により抗告人が受ける不利益とを比較衡量すると,抗告人において,本件ウェブページ等の公表を禁止されるという制約を受けることになったとしてもやむを得ないというべきである。

どういうことかというと、全国津々浦々の同和地区が「同和地区出身者」であるからという理由で組坂繁之らの人格権に結びつくというのであれば、私が仮に「同和地区出身者」であれば私の人格権にも結びついているはずで、それならば公開の是非を私にも判断する権利があるのではないかという主張に対し、裁判所は「自己の出身地の歴史や政治的背景を研究し,発表すること自体が制限されることになるものではない」とする一方で「本件ウェブページ等の公表を禁止されるという制約を受けることになったとしてもやむを得ない」としています。

ということは、「自己の出身地の歴史や政治的背景を研究し,発表する」という趣旨であれば、別の形で部落の地名を公表しても構わないという様にも取れます。また、この仮処分は「人格権」を守るためのもののはずですが、自分の人格に関わることについて隠す義務はあるのに公表する権利がないというのは、もはや人格権の概念の理解を越えているように思えます。

一般人から見て分かりにくい決定の理由ですが、法曹から見ても従来の判例や常識を既に超越しているのではないでしょうか。あれこれ理由を並べても、裁判所の本音は「同和は特殊」の一言に集約されると思います。

部落探訪(42)埼玉県加須市志多見林之中“中原”

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加須かぞ市と言えば、今年の第99回全国高等学校野球選手権大会で同市の花咲徳栄高校が優勝したことが話題となった。

また、加須市は非常に同和と因縁の深い自治体として一部の業界では有名である。1976年の「埼玉県加須市長選挙無効事件」は、裁判で選挙の無効が確定した戦後唯一の実例だが、まさに同和に絡むものであったため、司法関係者には有名であってもあまり表立って語られることがない。

筆者はそんな加須市を訪れた。残念ながら選挙無効事件の関係者はとっくに鬼籍に入っている。しかし、加須市の同和地区は1962年に同和地区精密調査の対象となったため、以下の詳細な資料が残されている。

同和地区精密調査報告書(昭和37年及び昭和38年)埼玉県北埼玉郡騎西田ケ谷・中原地区

筆者が興味を持ったのが、この資料に掲載された「中原」という地区だ。中原は加須市西部の松林の中にある、別名「林の中」という部落で、旧志多見しだみ村の上原と下原の間にあるため「中原」と呼ばれた。

志多見交差点に着いたときには、既に黄昏が近づいていた。

ラーメン屋の近くのこの空き地。ここには最近まで「山崎屋食堂」があり、デカ盛りの店として有名だったが、残念ながら昨年店主の息子が放火して焼けてしまった

同和地区精密調査報告書によれば、中原の世帯数は33で主な姓は、さきほどの食堂の名前と同じ「山崎」であるという。

山崎屋食堂のあった場所の角を曲がって住宅地に入ると、確かに「山崎」という表札の家が多い一角がある。国土地理院の地図でこの場所を調べてみると、小字名として「林之中」と書かれている。むしろ正式な地名は「林之中」で、中原が俗称のようだ。

現在では林に囲まれているというほどでもないが、あちこちに竹やぶや雑木林がある。

見たところは普通の住宅地で、建設業者や造園業者がある。

…と思ったら、普通の住宅に混じって、筆者には見慣れた形式の住宅が。

奥に進むと、同和地区に見られるニコイチ群が現れた。同和事業の初期作られた形式のもので、相当年数が経過しているようで、空き家も見受けられる。

ニコイチ群からさらに進んだところにあるのが、志多見集会所。これも同和事業で作られたものだという。ただ、解放同盟や法務省のポスターのようなものはない。今では普通の公民館のようになっているようだ。

さらに進むと、日枝神社が現れた。

神社の周囲には松林がある。同和地区精密調査報告書にある松林の一部かもしれない。

暗いため写真が超絶にボケてしまったが、「白山大神」と書かれている。ここには白山神社も合祀されているということだろう。

同和地区精密調査報告書には、昭和初期に「平長」という地区から川島姓が流入したとある。確かに、部落には川島建築をはじめ、川島という家がいくつかある。ただ、「平長」がどこなのか分からない。

地図で調べると、「平永」という地名があり、そこに白山神社がある。「平永」が部落かどうかは分からないが、そこに何か手がかりがあると思い、行ってみた。

この臭突のある家の近くに白山神社があるらしい。

ここがそれのようだ。2つの祠があり、もう日が暮れかかっているので明かりが点いている。

ここは同じ敷地内に白山神社と八坂神社が隣り合っている。そして、寄付者の名前を見ると、確かに川島という姓が見られる。

おそらく、「中原」の川島姓が平永から流入したことは間違いないのだろう。ただ、川島姓は加須市においては平永以外にも多く見られる地区があり、また平永には白山神社があるものの、部落であるという根拠はない。川島姓の流入は混住が進んだと解釈すべきだろう。

加須市には他にも見どころはあるのだが、日が暮れてきたので、今日はとりあえず終わりにした。

ネットの電話帳事件11月16日判決へ

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ネットの電話帳の裁判は結局その後どうなったのか? といった質問をしばしば頂きます。

去る9月5日に最後の口頭弁論が行われ、11月16日の大阪高裁判決を待つ状態になっています。

最後に双方から出された書面はこちらです。

一審原告(島崎弁護士)の理由書・答弁書
原告準備書面-H29-9-4.pdf

一審被告(ネットの電話帳)の理由書
準備書面(1)-H29-8-28.pdf
証拠説明書-H29-8-28.pdf
答弁書-H29-8-28.pdf

主な主張は次のとおりです。

大阪高裁は、電話帳への掲載件数は数千万規模であることから判決の影響の大きさを懸念しています。それに対し、島崎弁護士は、ざっくり言えば「ネットの電話帳は大した金は持っていないし、弁護士として割に合う裁判ではないから、消費者金融の過払い金返還請求のように、同種の訴訟が殺到するようなことはない」ということです。

島崎弁護士は、過去の裁判例を挙げて、単に氏名連絡先の情報の公開でも人格権侵害を認めた例があると主張しています。それに対するネットの電話帳側の主張は「いずれも双方が真正面から争わず地裁で終わっているし、昨今は登記簿等の掲載情報をネットで提供するサービスが登場しており、単に有料ならよいけど無料なら駄目だといった問題に陥っているのではないか」ということです。

どのような結果が出るか分かりませんが、いずれにしても電話帳の存続の是非にも影響する裁判であると言えるでしょう。

部落探訪(43)栃木県小山市城北、駅東通り

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部落問題と言えば西日本であって、関東ではほとんど聞かないと言われる。しかし、関東でも北関東には部落が多く、なおかつ同和行政も活発だった。隣保館の分布を見ると、そのことがよく分かる。ただ西日本に比べると大規模な部落は少なく、運動団体も1つにまとまらなかった自治体が多い。

そんな北関東でも比較的規模が大きな部落が、今回訪れた小山市の部落である。

部落はかつて「稲葉郷」と呼ばれた地域の東側にあり、「東町」と呼ばれた。現在はほとんどの場所が「城北じょうほく」、「駅東通り」等に改称されている。

1935年当時の世帯数は121、人口は781であった。

ここが部落のメイン通りとも言える県道339号線。1980年代に作られた。ご覧の通り、飲食チェーン店やレンタルビデオ店、スーパーマーケット等が立ち並び、典型的な北関東の地方都市の様相である。とても部落には見えない。

ただ、道の脇に気になる住宅が見える。これは、非常に古いタイプの公営住宅で、関東の農村部に作られたものだ。

この地域は1980年代までは田園風景が広がっていた。城北はほとんどが田畑で民家はあまりなかった。駅東通りの辺りが部落の中心だった。

それが、90年代に急速に都市化。今のような風景になったのは、21世紀になってからである。

関東の部落にはよくある白山神社も駅東通りにある。神社の前の畑にはサトイモが育っている。

この白山神社は、社務所もある立派な神社だ。

1992年に発行された「栃木県部落解放運動の歩み」によれば、稲葉郷の起源は、平将門に仕えた者が藤原秀郷との戦いで負けて、捕らえられて連れてこられたとの伝承があるという。ただ、「史実かどうかは定かでない」とする。

こちらは、同和対策で作られた城北集会所。「いきいきふれたいセンターあじさい」という老人施設を兼ねている。もはや同和という雰囲気は見られないが、れっきとした同和対策集会所で、「同和問題の根本的な解決及び基本的人権が尊重される社会の構築に資するため、住民の教養の向上、健康の推進、生活文化の向上等を図る場及び人権教育、人権啓発、人権意識向上等の推進の場として」存在している。

集会所の近くには線路がある。これは東光高岳専用線という工場の製品・資材運搬用の線路で一応現在でも使われているようなのだが、草が伸び放題で線路脇は畑になっている。

さらに部落を散策すると、ここが最近まで農村だった形跡をあちこちで見ることが出来る。新しい住宅があちこちに立ち並んでいる一方で、農村にありがちな臭突のついた住宅が混ざっている。

古い公営住宅が非常に多く見られ、早くから同和事業が行われ公営住宅が建設されていたことが分かる。

一方で、立派な屋敷も多い。県道339号線沿いを注意して見ると、道路に面した大きな民家がいくつもある。その表札のほとんどは「松本」「松島」「松嶋」であり、古くからの住民の家であることが分かる。

部落とはいっても、小山駅のすぐ近くである。急速に都市化したことで、古くから土地を持っていた農家は、裕福になったことが伺える。

田畑をつぶしてアパートを建てれば、大いに収益が得られるだろう。

アパートに囲まれたプレハブが…これはもしや?

年季の入った全解連(全国部落解放運動連合会)の事務所だった。青いテープには「全国地域人権運動総連合 栃木県地域人権運動連合会「人権連栃木」」と、改称後の名前が書かれている。

残念ながら、訪れた日は休日だったためか、誰もいなかった。


部落探訪(44)神奈川県秦野市曽屋中野

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神奈川県最大の部落はどこか? と言えば、それは今回紹介する曽屋そやである。1934年当時の世帯数は135、人口は872であった。

曽屋を地図で調べると秦野市内の広い範囲が該当するが、部落はその中の一部である、急斜面にある。

神奈川県内でも唯一の隣保館である「ほうらい会館」は曽屋にある。あいにくの雨でしかも平日にもかかわらず、隣保館の駐車場は満杯で高齢者で賑わっていた。ここを始点に探訪を開始する。

ほうらい会館の横には遊具がある「ほうらい公園」がある。晴れていれば子供たちのよい遊び場である。

金目かなめ川に架かる「蓬来人道橋」。ここから、「ほうらい」の漢字表記が「蓬来」であることが分かる。宮本洋一氏の日本姓氏語源辞典によれば「蓬来」という姓があり、「蓬莱」の異型であるという。つまり、蓬莱の別表記ということだ。

蓬莱というと、関西出身者だと肉まんで有名な「551の蓬莱」を思い浮かべてしまうだろう。蓬莱とは中国の道教の用語で、仙人が住む地を指すという。また、日本においては富士山を指す言葉でもあるようだ。

部落を探訪する時は、スマートフォンで「ポケモンGO」を起動すべきである。これは、寺社や道祖神などその地域の名所がポケストップになっており、どこが見どころか分かりやすいからだ。グーグルマップで検索するよりも効率がよい。

ちなみに、さきほどのほうらい会館はポケストップになっており、ほうらい公園はジムになっている。

部落は、この金目川の向こうにある。アパートがあり、地区がから住民が流入していることが分かる。

曽屋の中でも、この中野自治会の区域が部落に該当する。この中野自治会館には、一時期全日本同和会の事務所があったのだが、特定団体が自治会館の一部を専有することについて地元住民から反発があり、退去したという。

部落は急斜面にあり、今でこそ舗装されて自動車やバイクで駆け上がることができるが、舗装されていなかった時代は今日のような雨の日は大変不便であっただろう。

今でも、細い道が残っており、横須賀でよく見られるような、徒歩でないと入っていけないような場所にある住宅がいくつかある。

ただ、同和地区指定された部落の特徴として、必ずと言っていいほど、誰でも自動車を停められる空き地や少し余裕のある道路が確保されている。曽屋もその例に漏れないようである。やたら駐車禁止を厳しく取り締まって、コインパーキング業者を儲けさせるだけではなくて、こういった配慮を一般地区にもしてもらえればと思うのは筆者だけだろうか。

ひたすら坂道を登ると、白山神社の案内板があった。

白山神社はポケストップになっており、ここでもポケモンGOが威力を発揮する。

曽屋の白山神社はろくに管理されていなくて荒れ放題になっているという噂を耳にしていたが、来てみるとそうでもない。確かに、他の地域の白山神社に比べれば階段に雑草が多めだが、完全に放置されていれば、この程度では済まないだろう。

遊具もあり、子供の遊び場にもなる、立派な白山神社だ。

部落である斜面の上は見晴らしが良い。残念ながら今日は雨だが、天気がよければ富士山が見え、まさに蓬来と呼ぶにふさわしい景色が見られるはず。景色を気に入ってよそから移住する住民も多く、混住が進んでいると聞く。

住宅に入り混じって畑も多い。秦野と言えば落花生が名物。写真は落花生畑だ。

これは千部供養塔と言うそうだが、由来はよく分からない。南妙法蓮華経と書いてあるので日蓮宗と関係あるのだろう。

これは、神解連(全国部落解放運動連合会の神奈川県連)の「なんでも相談所」の看板。年季が入っている。

ちなみに、なんでも相談所は神解連が神権連(全国地域人権運動総連合の神奈川県連)となった今でもここに存在している。本当になんでも相談できるので、筆者に対して「あの、あの、楠橋のお城って同和会の会長が北九州市に売ろうとしていたって本当ですか?」とか「同和者の血筋が入ると困るので詳しく教えてほしい」といった電話をかけてくるような人は、ぜひ秦野を訪れて神権連の「なんでも相談所」で、何でも相談してみるべきであろう。ちょっと頑張れば秦野駅から歩いて来れる。平日なら誰かいるはずだ。

細い路地、急斜面があるが、今ではコンクリートで固められている。

部落では共産党と公明党のポスターが見受けられた。他の政党のポスターは全くなかった。

こちらは、日蓮宗長源寺。ポケストップにもなっている。

神奈川県の部落は、日蓮宗の檀徒が多いようである。これは筆者が現在まで部落探訪してきた主観ではあるが、日蓮宗の部落は、浄土真宗の部落に比べて、異常・異様な物件、空き地、廃墟、ニコイチが少ないように感じられる。素朴な疑問として、なぜあからさまに同和地区と分かるようなニコイチ群をわざわざ作る部落があるのかと疑問に思うことがあるが、それは全くまっとうな感覚で、神奈川県では同和事業が行われた時代に、同和対策の公営住宅を作ることは新たに同和地区を作るようなものだと住民の反発があった。そのため、ほとんどの部落は貸付金による持ち家方式で地区の改良を行ったという。

社会学者マックス・ウェーバーの名著、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では宗教が社会や経済に影響を与えることを説いている。とすると、日本において仏教の宗派の違いが同和問題に影響を与えたのではないかという考えは、それほど突飛な考えではないのかも知れない。

東京高裁第14民事部第2回審尋

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前回に続き、筆者のマンションが差し押さえられた件で、保全抗告の第2回審尋が10月19日に行われました。

示現舎側の書面はこちらです。
準備書面(1)C-H29-10-15.pdf
証拠説明書C-H29-10-15 .pdf

片岡明幸副委員長側の書面はこちらです。
債権者準備書面-H29-10-17.pdf

今回は、部落がどうこうという話はあまりなくて、「部落解放同盟関係人物一覧」について、プロバイダ責任制限法上の扱いはどうなるかという法律論が主となっています。

プロバイダ責任制限法というと、インターネット掲示板等を規制するための法律と誤解されていますが、むしろ逆で、大量の情報を扱うインターネットサービスが全ての情報について全責任を負うことは現実的でないので、それらのサービスについて条件によって免責する、つまり規制緩和のための法律です。

Wikiもインターネット上で情報を媒介するサービスなので、プロバイダ責任制限法の対象となります。そこに、他人を中傷するような内容が書き込まれたとしても、プロバイダがそのことに気づいた時点で対処すれば、原則としてそれ以上の責任は問われないことになっています。

解放同盟側の主張を端的に言えば、「部落解放同盟関係人物一覧」については情報を媒介するのではなくて、筆者が自分で書き込んでいたのだろうということです。

この点については事実無根なので、さらに反論することにしました。次回審尋が11月27日に行われます。

また、同和地区Wiki関係の仮処分について、概ね発禁を維持した東京高裁の決定について、許可抗告申立て、特別抗告を行いました。示現舎側が提出した書面は次の通りです。

許可抗告申立て理由書B-H29-10-19.pdf
特別抗告理由書B-H29-10-19.pdf

部落探訪(46)大阪市北区中津3丁目“さんば”

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大阪のスラムと言えば、西成のあいりん地区が有名だが、それに次ぐ規模のスラム―正確にはスラム跡とでも言えるものが、ひっそりと残っている。それが中津である。

ただし、結論から言ってしまえば、「部落」としての中津は名実共にほぼ消滅してしまっている。中津は、「解放」された部落である。

全国部落調査によれば、1935年の中津の世帯数は105、人口は495である。しかし、この数字が部落の規模を表したものかどうかは疑いがある。

なぜなら、大阪市同和事業促進協議会『10年の歩み』によれば、舟場地区について実際の部落民の戸数は全国部落調査に記録がある世帯数の半分にも満たない旨の記述があるからだ。後述するが、実は中津と舟場の起源は、現在は淀川の底にある村であり、2つの部落は兄弟のようなものである。

阪急中津駅のすぐ近くにある中津中央公園。『10年の歩み』によると、ここが中津部落の中心地だった。ここは戦時中に空襲で焼け、さらに戦後大阪市や阪急によって土地が買い上げられ、住民は立ち退いていった。

『10年の歩み』の「立退き後の中津」とキャプションのある写真と同じアングルで、現在の場所で写真を撮ると、上の通りとなる。もはや跡形もない。

中津というと、この中津商店街が知られている。

うなぎの寝床のような細い商店街。こんなにも細長い商店街は大阪では他にないだろう。ここが中津の部落だと地元住民さえ誤解していることがある。かくいう筆者も最初はそうだった。しかし、ここはスラムであって、もともと部落民の家は数軒しかなかったという。

商店街の周辺には細い路地がある。道路と民家の境目がいびつで、民家の土地が無秩序に道路にせり出して来たことが分かる。これはスラムだった地域によく見られる特徴だ。

空き家、空き地も多い。自動車が入ってこれない場所が多く、土地の広さも中途半端などで、マンション等を建てるのが難しいためだろう。本気で開発しようと思ったら、一帯を買い上げないといけない。

現在、ホテルやオフィス街になっている大阪駅の北側は、戦後間もないころまではこのような路地が入り組んだスラムだった。しかし、大規模に開発されて現在のような状態になっている。開発の波は徐々に北上していったが、ここまでは到達しなかったということだろう。

もとは「中津浜通2,3丁目」という名前だった。現在も町内会名にその名残がある。

現在の中津小学校は、もとは中津中央公園隣の大阪市立北スポーツセンターの場所にあったのが移転したものだ。

この豊島神社から、中津の歴史を垣間見ることができる。神社の敷地内には多数の鳥居、祠がある。これは、今は淀川の底にある多数の村の神社がここに合祀されたからだ。

明治18年(1885年)の淀川の大洪水を記念した石碑。これを期に、淀川の大規模な河川改修が行われた。

河川改修に伴って移転した村に光立寺村があり、その中に「皮多村」があった。「皮多村」の住民の一部は後の中津部落の近くにあった「下三番村(通称「さんば」)」に移転し、一部は後の舟場部落に移転した。これが、中津・舟場両部落のルーツである。

なお、中津と言えばイトマン事件で有名な許永中の出身地としても知られているが、許永中自身は単にスラムの住民であり「部落民」というわけではないと考えられる。

部落探訪(45)鳥取県鳥取市嶋

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部落の地名を公開することで部落民が特定され、差別に利用されるという。しかし、地名が部落に一対一で結びつくわけではない。

部落の地名にやたらと敏感な行政に対して、「同和対策で作られた隣保館や教育集会所はどうなのか」と問うと、「それらのある場所が必ずしも同和地区ではないから問題ない」という。確かにその通り。であれば、地名だって同じはず。「同和行政や運動団体は常に正義で、差別をするのは一般市民だ」という言説にとって都合がいいように、その時々でコロコロ基準が変わってしまう。

そのような不可思議な問題を検証するために、今回は鳥取市の「しま」という地区にやってきた。

1795年に書かれた『因幡誌』には旧因幡国(現在の鳥取県東部)の穢多村、屠児村、鉢屋村の場所が書かれているが、嶋については賎民が居住していたとの記述はない。それから約50年後の、1849年の「高草郡村々組合帳」に「嶋村穢多」が6軒存在することが記述されている。

そして、1897年の『山陰之教育第20号』で、「氣高けたか豐實村とよみそん島村」に「新平民」の世帯が9戸あったとされる。これが1923年の記録では7戸、1935年の記録では8戸、そして最新の資料である1997年の『同和問題の解決のために・鳥取市職員同和問題研修資料』では7世帯とされる。

「高草郡村々組合帳」によれば、旧高草郡には穢多の村は同和地区指定された場所よりももっとたくさんあった。例えば布施、安長、徳尾、赤子田といった場所にも穢多の居住地があったとされる。しかし、それらはいずれも5軒以下の小さな村だったので、散り散りになったか、あるいは現存しているとしても忘れ去られているのかも知れない。

なお、賀露には14軒の鉢屋があったが、こちらも同和地区指定されていない。非人に相当する鉢屋は世襲身分ではないことが関係していると考えられる。

さて、嶋は山陰自動車道の鳥取西インターの近くにある。現在、鳥取西インターから先の山陰自動車道はまだ未開通なので、兵庫・岡山方面から鳥取へ向かえば、ここがどん詰まりということになる。


ここが同和施設である「嶋地区会館」である。見たところ立派な自治会館で、消防ポンプをしまうためのガレージもある。

比較的建物が新しいのは、2010年に山陰自動車道のインターの建設に伴って移転・建替えがされたためだ。

地区会館近くの集落に入ると、細い道、古い家がある。何も知らなければ、「いかにも部落だな」と思ってしまうだろう。

しかし、事前の知識とは辻褄が合わない。どう見てもこの集落は7戸という規模ではない。実際、25戸ある。

では、このうちの7戸が部落ということなのか? と思ってしまうが、それはあり得ないことだ。このような鳥取の郊外の村では人の出入りが少なく、昔と比べて戸数がほとんど変わっていないことが多い。また、歴史的には部落は本村の枝村という形で存在したはずで、部落と一般の家が入り混じっていることは考えづらい。

農作業をしていた住民がいたので、「同和行政について調べているんですが、この地区会館は同和事業で作られたものですよね?」と聞いてみた。

「そんなこと調べてたら、怒られるで」

「いや、もう怒られてますから…」

そんなやり取りから始まり、地区会館について詳しく聞くことができた。

鳥取の他の部落と同じく、嶋も「かみ」「しも」と一般と部落が分かれていたが、現在は1つの自治会で、様々な行事も一緒に行っているのだという。特に、地区会館が移転してからは、嶋全体で会館を利用するようになった。もう、同和がどうとかいうことは言わないことになったという。

「本当に一緒なんですか、学校の登校班なんかも?」

「一緒一緒。別なのはゴミの集積所くらい」

地区会館の位置づけは、市の施設とは言っても、普通の自治会館のように認識されているという。土地と建物を市から借りているような状態で、水道光熱費は自治会の負担、今後建物の修繕が必要になっても自治会が負担するのではないかということだ。

集落の中は軽自動車でなんとか入れるくらいだが、ここは部落ではない。空き地・廃墟・ニコイチといったものは見られない。しかし、ここが部落だと思っている人が多いだろう。

さて、さきほどの集落の北東、鳥取西インターチェンジをまたいだところに、自動車のタイヤショップがある集落がある。ここの戸数を地図上で数えてみると、7戸あり、『同和問題の解決のために・鳥取市職員同和問題研修資料』の戸数と一致する。戦後間もないころの航空写真でも、ほぼ同じ数の民家が存在しているので、こちらも古くからの集落であることが分かる。

ここも住所表記上は嶋なので、こちらが部落ということになるのだろう。

しかし、ここには比較的立派な家が立ち並んでおり、かと言って不自然な豪邸やニコイチ住宅は見られない。さきほどの集落とこちらを見比べたら、ほとんどの人は先程の集落が部落だと思っていまうだろう。これは鳥取市内の他の部落でも見られることで、鳥取市が同和地区の呼称として大字名を使ってきたため、実際の部落の範囲に関係なく、その地域全体が部落と思われ、住民が部落民と思われている実情がある。そういった意味で対外的な「心理的差別」の面では部落と部落外の住民は平等な立場にあるはずで、そのことが部落周辺住民から問題にされることはほとんどないのに、ことさら部落の地名が知られることが差別につながると主張されるのは不可解なことである。

また、確実に言えるのは嶋地区会館は同和地区外にある同和施設の一例であり、それだけでなく事実上は同和施設としての利用はされていないということだ。

この児童遊園も地区会館の移転・改築と同じ時期に同和対策で整備されたもの。少子化によってこのような施設が草ぼうぼうで放置されているということはあり勝ちなことだが、ここがそうなっていないのは、地域全体で利用していることを伺わせる。

座間市9人死体遺棄事件、事件発覚直前と直後の事件現場の動画を入手

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当初はSNSで自殺希望者を誘い出した自殺幇助事件と思われた、座間市の死体遺棄事件。ここに来て被害者の所持金を奪っていた、性的暴行をしていたという報道もされ、猟奇大量殺人事件の様相を呈している。

最初に警視庁が遺体を発見したのは10月30日午後4時頃と報道されているが、示現舎では、その時間前後に現場付近を撮影した動画を入手した。

事件現場となったのは、神奈川県座間市緑ケ丘6丁目の「シーバスハイム」。ここは、従来はあまり自動車が通る場所ではなかったのだが、昨年4月に座間総合病院が開院し、その後自衛隊の官舎が完成してからは、市役所からそちらへの抜け道として使われるようになり、頻繁に車が通るようになった。

示現舎が入手したのは、その車のドライブレコーダー動画である。撮影されたのはそれぞれ10月30日の午前10時頃と、午後5時頃だ。画面に表示される日付が違っているのは、ドラレコの時計の設定が違っているため。

午前10時頃に既に事件現場前にバンが停まっているのが確認できる。警察関係者か、単なる配達なのかは分からない。

そして、夕方には覆面パトカーと思われるセダンが停まっている。

現場はやや奥まったところにある住宅地だが、自動車の通行や人通りは少なくない。

地元事情に詳しい近所の商店主に事件のことについて聞いてみたが…

「ああいうの苦手、想像するのも嫌。事件のことは分からないよ、(異臭があったという噂も)何も知らなかった。近所付き合いはそれなりにあるけど、ワンルームマンションの住人のことなんて分からないよ。なんかもう気持ち悪いね。こういう感覚間違ってる?」

と、事件のことは話題にするのも嫌という様子だ。

事件翌日の朝、現場前にはマスコミ関係者が集まっていた。

空には報道のヘリが2機。

夕方には現場前の道路が立入禁止に。近所の住民、中高生も集まり騒然としていた。

部落探訪(47)奈良県御所市元町“西松本”

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今回の部落探訪は、奈良市の御所ごせ市にやってきた。御所市と言えば、全国水平社の創設者の一人である西光万吉の出身地であり、また住井すゑの「橋のない川」の舞台としても知られる。

ということは、今もガチガチの同和事業をやっている地域だろうと思ってしまうかも知れないが、そうでもなくて、実は御所市は2011年に同和地区のランドマークとも言える隣保館を廃止した。同和事業の歴史の長い地域に限って、同和事業を清算する努力をしているものなのである。

そして、その中でもこの元町地区は先日のプロ野球ドラフト会議で巨人から一位指名を受けた鍬原くわはら拓也たくや投手と若干の縁のある地域だ。


探訪は、この御所市中央公民館を起点に開始する。念のために言っておくと、ここは隣保館ではなく本当に公民館である。過去に隣保館であって、後で公民館に転用されたというわけでもない。

奈良県では毎年11日は「人権を確かめあう日」となっているようだ。同和対策審議会答申が出された1965年8月11日と、「ひとひとしい」という語呂合わせだという。奈良県民なら、毎月11日は月命日のように人権を確かめあうべきだろう。

公民館の近くに、漉割すきわり工場がある。漉割というのは、要は皮革加工の1つである。皮革工業というと、どうしても部落に結び付けられがちだが、これが関係あるのかどうかは分からない。

なお、元町の部落の旧称は「西松本」。1935年の記録では戸数232、人口1245、産業は農業、商業と日雇いであった。生活程度は悪くなかったようである。

確かに、それほど寂れた雰囲気はない。空き地や廃墟が目立っている訳ではない。

…と思ったら、同和地区特有のニコイチ群が現れた。これらは改良住宅である。

ただ、この部落の面白いところは、同じような形をした民間の建売住宅も混ざっていて、それがニコイチと妙に馴染んでいるところだ。ニコイチは古くはなくて、比較的新しいタイプに見える。民間の住宅と改良住宅を見分ける方法は難しくない。改良住宅には必ず番号が振られているので、注意深くニコイチを観察すると、どこかに「○○号」というような表記がある。番号表記があれば改良住宅、なければ民間の住宅ということだ。

改良住宅の集会所があるが、看板の文字が色あせていて読めない。

改良住宅に混じって立派なお屋敷もある。

若干の空き地と、作業場のような建物、自動車を駐車できる道路もある。

一見さんにはちょっと入りづらいお好み焼き屋がいくつかある。

こちらは、エホバの証人の会館。

特筆すべきはこの建物。「農林業同和対策事業 元町農機具保管施設」と書いてあったのだと思うが、「同和」と「元町」の部分だけ塗料が剥がされて錆びている。「同和」が削られるのは分かる気がする。要は「寝たことを起こすな」ということだろう。しかし、「元町」が削られるのは何か意味があるのだろうか。

同和対策の農機具保管施設の裏側には御所市産業振興センターがあり、見本市で賑わっていた。

保育所、公園、児童館等がある。同和地区であることを感じさせる公共施設はあるものの、あまり殺伐とした雰囲気はない。

さて、この部落の南西の櫛羅くじらには「元町南団地」という市営住宅郡がある。この市営住宅は2017年10月26日にTBSで放送された「ドラフト緊急特番!お母さんありがとう」で、巨人から一位指名を受けた鍬原投手の実家がある場所として映されたことからネット等で話題となった。

家賃4000円という安さから、鍬原自身が部落出身ではないかとも言われたが、この住宅の場所は部落外である。


ただ、その風景は部落以上に部落らしい趣がある。しかし、ここは部落ではない。

元町南団地が作られたのは、国の同和事業が始まるよりも前のことで、先述の改良住宅とは違って、特別に同和事業で作られたものではないようである。

このような古い公営住宅は全国各地にある。元町南団地には見るからに高齢者が多く、建物は老朽化しているが、建て直すと家賃を上げざるを得ないため、入居者を新規募集せずに、住民が出ていき、建物が古くなるのを待っているのが見て取れた。

市営住宅には、今となっては珍しいデコトラが停められていた。

部落探訪(48)特別編鳥取市吉岡温泉町谷山(前編)

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温泉のある部落と言えば、以前長野県の大室部落を紹介した。ただ、大室の場合は温泉が見つかったのは平成になってからである。

しかし、今回紹介する吉岡温泉は応和2年(962年)に発見されたと伝えられ、優に1000年以上の歴史がある。そして、温泉自体が部落の歴史や解放運動、同和事業と密接に関係しているという、稀有な部落である。

吉岡温泉の秘湯、幻の“エタブロ”

1795年に書かれた地誌、『因幡誌』によれば、当時吉岡には9戸の穢多村があったとされる。そして、1897年の記録では23戸、1923年には29戸、1935年には26戸、そして1997年には38戸とされ、理由は分からないが徐々に増えている。鳥取の多くの部落と同じく、吉岡温泉全体が部落というわけではなくて、かつて「湯村」と呼ばれた本村に対する分村であった「谷山」が部落であった。

さて、『部落解放』1977年12月号17頁で、当時の部落解放同盟鳥取県連合会書記長である前田俊政氏がこう述べている。

「下湯という温泉がありまして、これは俗称「エタブロ」と言われていました。しかしこれは、神経痛・皮膚病に非常によく効いて、近郊はもとより、近畿・関西からもかなりの湯治客が来ておりました。」

なぜ「エタブロ」と言うのかというと、ある時本村で火事があった時に、谷山が消火に貢献したことから、その源泉の利用権が谷山に与えられたと言われているためと考えられる。その火事がいつ頃のことかは、残念ながら分からなかったが、おそらく幕末か明治初期であろう。

この前田俊政という人物、部落地名総鑑に「下土居」という小字名が書かれているといった嘘を言うなど、よく話を盛ることから、「エタブロ」と言われていたというのは本当かどうか疑った方がよいだろう。しかし、この「エタブロ」という呼称、いかにも効能がありそうな感じがするので、今後はこの呼称を使う。

吉岡温泉には、確かに「共同浴場 下湯」がある。実はこの建物、同和対策事業で作られたものだ。

入浴料は大人が200円と、非常に安い。ただ、下湯が特別に安いわけではなく、メインの浴場になっている「吉岡温泉館」の入浴料も同じく200円だ。

前述の通り下湯は効能が高いと言われ、「瘡湯」とも呼ばれていたのだが…。

住民に「下湯の源泉はやっぱり特別なんですか?」と来てみると「いや、周囲の旅館と一緒ですよ」と言われて、拍子抜けしてしまった。

しかし、源泉の管理に関わっているという住民から、次のような話を聞くことができた。

「昔は深く掘られて階段で降りるようになっていた温泉がありまして、そこだけはぬるい湯が湧いていました。普段は湯の色は透明なんですが、地震があったりすると白く濁って、それが効能が高いと言われていました。でも、そこは埋められてもうないですよ」

「温泉が自噴していたんですか?」

「はい、地面に穴を掘ったら湧いて出てきたようなところに、そのまま入ってたんですよ」

「ちなみに、「エタブロ」って言われてたんですか?」

「さあ、それは分からん」

現在の下湯の温泉分析書

吉岡温泉は熱い温泉で、50度くらいある。しかし、「エタブロ」だけはなぜかぬるかったそうだ。「エタブロ」が埋められた理由は、もともと吉岡温泉位は非常に多数の源泉があったのだが、管理が大変だったので、維持費用削減のために3つの源泉に集約されたのだという。そして「エタブロ」が埋められた時期というのが、今の下湯の建物が作られた頃だというのだ。

昨今は、温泉の「湯枯れ」が各地で問題になっている。今の感覚ではもったいないと思ってしまうが、当時は効率が優先だったのだろう。

いずれ、下湯の建物も耐久年数を迎える。建て替える際は、ぜひその下を掘って、幻の「エタブロ」を復活させるべきである。

谷山は、名前の通り温泉地から谷沿いに上がったところにある。地元の住民も谷山には「上がる」という言い方をする。

これは、同和対策で作られた谷山集会所。

集会所以外に畜産団地の建設、農道の敷設、用排水工事が同和対策で行われたことが分かる。先述の前田俊政も市議会議員として石碑に名を連ねている。

吉岡温泉を地図で見ると、県道191号線が温泉地を迂回するように通っている。これが同和対策で作られた道路だ。

ただ、さきほどの「エタブロ」の件と言い、この道路と言い、住民の目先の都合が優先で、観光資源としての温泉や観光客のことはあまり考慮せずに同和対策が行われた感が否めない。

かつて、谷山は本村との間で山林や温泉の使用権のことで幾度となく揉めていた。はたからみると、単なる村同士の争いにしか見えないのだが、「部落にとって不利益なことは全て差別」とする朝田理論が持ち込まれ、行政闘争が行われた。当時を記憶する住民はこう語る。

「小学生の頃だったかな、谷山の人が、何やらメガホンで呼びかけていましたよ。それで、谷山の子が全部学校を休んで、修学旅行が中止になった。自分が覚えているのはそのくらいかな」

ただ、その時代を知る住民も高齢になって、当然といえば当然だが、あえてそのような話をする住民もあまりいないので、若い人は興味が無いのが実情だ。

(次回に続く)


部落探訪(48)特別編鳥取市吉岡温泉町谷山(後編)

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今年の5月、朝日新聞に『けがれる…獅子舞参加を許されず 「同じ氏子」と訴えて』という記事が掲載された。

「同じ神社の氏子でありながら、「けがれる」として最近まで獅子舞への参加を許されなかった被差別部落が西日本にある」と、具体的な場所を伏せて、「部落差別」の事例として報じていた。しかし、同様の趣旨で具体的な地名を記載した記事が部落解放同盟関係団体の雑誌『ヒューマンライツ』に掲載されていたことから、その地名が鳥取市吉岡温泉町谷山であることが特定されたことは、先日書いた通りである。

そこで、実際に現地に獅子舞を見に行こうとしたのだが…。



奇しくも獅子舞が行われる10月21日は台風が近づいており、旅館では宿泊客のキャンセルが相次ぎ、温泉街は閑散としていた。嫌な予感がしつつも、獅子舞が行われるという吉岡神社に行ってみたが、誰もいなかった。旅館に戻ると、獅子舞は11月4日に延期になったとの報が入ってきた。

住民によれば、獅子舞は温泉街ぐるみでやっているというよりは、一部の人でやっているような状態だという。祭りと言っても、文字通り神社の儀式で、それ以上でもそれ以下でもないという感じだ。

「獅子舞は今はやり手が少ないけ、やってくれんかと頼むだけども、なかなか引き受けてもらえん」

と住民は語る。しかし、それは嘆いているというより、どこか他人事のようだ。

仕方ないので、温泉と料理を堪能して帰った。

当然、これで諦めるわけにはいかないので、再度11月4日に来てみたのだが、この日も雨模様。獅子舞はどうなったか聞いてみると、前日にやってしまったのこと。運が悪かった。

麒麟獅子舞は観光資源として一時期鳥取市が売り込んでいたのだが、いつどこで行われるのかほとんど分からない。村ごとに取り組みの度合いにも温度差があり、大雨になろうが決行するところもある。

仕方ないので、「はやし焼肉ホルモン店」でホルモン焼きうどんを食べた。この店のホルモンは非常に旨いので、吉岡温泉に来たら必ず立ち寄るべきだろう。ここで、朝日の記事に出ていた「地区の男性(61)」、つまりは部落解放同盟谷山支部長の居所を聞くことができた。支部長は谷山の奥にある牛小屋にいるという。

谷山をさらに上に上がると、老人ホームがある。ちなみに、吉岡温泉から高速道路のインターチェンジや市街地に抜けるのにも、この道が便利だ。

ここがその牛小屋。ご覧の通り、同和対策で作られていることを隠していないというか、むしろアピールしているような施設だ。

支部長に会うことは出来たが、「牛の出産があるから、忙しくて話はできない」ということだった。「では、時間がある時でよいので」というと、「あんたとは話が合わんと思う」と返された。要は「取材拒否」ということだろう。それでも、いくつか質問に答えていただくことができた。

この谷山畜産団地では、肉牛や乳牛を育てているのではなく、牛の繁殖を行っているという。つまり、ここで生まれた子牛を各地に出荷しているわけである。なので、さきほどの「はやし焼肉ホルモン店」のホルモンは、ここの牛を使っているわけではないのだ。

さて、問題の朝日新聞の記事については「あれは自分の考えを述べたもの」だそうである。

実は、筆者がツイッターや本サイトで部落の場所を特定したことについて、後で東京法務局からやんわりと削除要請の電話がかかってきた。そのことについて覚えがないか問うと、「あれは問題があると思ったから、法務局に相談した」ということである。それでは、ヒューマンライツ等の記事は問題ないのか問うたが、それについては答えてもらえなかった。

さらに記事に出てくる「氏子総代長(59)」にも話を聞いてみた。しかし、谷山のことについては「寝た子を起こしたくない」ということで、あまり話をするのは気が進まないということだった。

「やっぱり谷山というのは、別の村という感覚なんですか?」

と問うと、

「それはちょっと話せない」

といった感じだ。

朝日の記事については、朝日新聞の記者から記事にしたいと電話があったが、結局地域を特定しない形で記事になったのはやはり「寝た子を起こしたくない」のが理由だという。谷山でも獅子舞を舞うようになった経過については言葉を濁ししつつも「ある2人の人物が相次いで亡くなったこと」が関係しているという。

吉岡温泉の世帯数は100戸以上あり、それに加えて谷山まで1戸1戸獅子舞を舞うことができるのは、吉岡温泉では村の中での獅子舞はかなり形を凝縮して、1~2分程度で舞ってるからだそうだ。

それにしても、当の住民が「寝た子を起こすな」という考えで、ましてや解放同盟の支部長が削除のために法務局に相談するような話なら、全国紙の記事になることで、いったい何を期待していたのか、意味の分からない話である。

ちなみに、吉岡温泉のもう1つの名物と言えば、この「凝煎飴ぎょうせんあめ」である。米と麦芽を発酵させたものを煮詰めた、正統派水飴である。そのまま割り箸に巻きつけて食べてもよいし、お湯で溶かして飴湯にしてもよい。旅館でお土産に欲しいと頼めば、どこからか持ってきてくれる。

部落探訪(49)大阪市東中島2丁目“南方”

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東淀川区は日の出、飛鳥、西中島という同和地区と呼ばれる地域が3つ隣接するエリアを有している…というのは、田畑たばた龍生りゅうせい・元大阪市都島区長が大阪市に提出した論文の中の一文である。この論文は後に問題とされ、修正されたのだが、東淀川区の西の端、新大阪駅近辺に同和地区があることはそれくらいよく知られている。

ただし、この記述には決定的な間違いがある。「日の出」(あるいは「日之出」)および「飛鳥」が同和地区なのはその通りだが、「西中島」はそもそも東淀川区ではなく淀川区であり、東淀川区のもう1つの同和地区は「南方みなみかた」地区である。地名で言えば、大阪市東淀川区東中島2丁目及び1丁目の一部がそれに相当する。

その前に、以前の中崎西部落の探訪で行き忘れた場所に行ってきた。

こちらは、公民館であった旧済美会館。建物ごと民間に払い下げられて、今は美容院になっている。公民館の面影が残る、レトロな建物がそのまま使われているところが中崎らしい。

さらに、民家の2階をくぐれないと入れない、珍しい路地には2つの井戸がある。これらの井戸は共同井戸で、今でも現役で、植木の水やりなどに使われているという。ただし、飲むことはできないそうだ。2つ目の井戸には、見るからにカナケが浮いていた。

もう1つ、中津探訪記事で中津会館ではないかと書いたこの建物。近所の住民に聞くと、これは中津会館ではないとのことである。

住民の証言により、この角地の駐車場に中津会館があったことが確認された。

ただ、「10年の歩み」にある中津会館の写真は明らかに角地ではない。また、あそこまで外見が似ているのは偶然ではないだろう。可能性があるとすれば、そもそも「10年の歩み」が誤っているか、「10年の歩み」が書かれた後に中津会館が古い建物を残したまま移転したか、そのどちらかであろう。さらに謎を残すこととなった。

なお、許永中が育った中津の朝鮮部落はここではないかと推定される。表札をみるとコリア名がいくつか見られた。

さて、それでは南方探訪に戻ろう。せっかく「西中島」の名前が出てきたので、探訪はこの駐車場からスタートした。ここは、かつての「西中島駐車場」、今は「大阪駅南第2駐車場」になっている。この駐車場の曰くについては、また別の探訪で触れることにしよう。

この道路が南方部落のど真ん中を突っ切る道路…と言われても信じられないであろう。都会らしいマンションやオフィスビルが立ち並んでいる。

1935年の記録では南方部落の世帯数は200、人口は1000。2003年に作られた大阪市人権協会の「50年のあゆみ」によれば470世帯、951人である。

ただ、大通りから少し外れると住宅地もあり、やや空き地が目立つ。

こちらは、南方南公園。

1980年代の新大阪駅周辺と言えば、家電製品だけでなく自動車まであちこちに不法投棄されていた。いまではほとんど一掃されたが、今でもこのような風景が少し残っている。

南方には解放会館、青少年センター、浴場(ゆーゆーファミリー)があったが、全て取り壊されて土地は民間に売却され、今は跡形もない。

同和地区の面影を残すのは公営住宅で、一部の土地はコインパーキングとして活用されている。

このお寺は地区の東端にあり、ここから先は別の同和地区「飛鳥」地区である。

ネットの電話帳が大阪高裁で完全敗訴!

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個人情報の削除を求められ訴えられていたネットの電話帳ですが、大阪高裁では敗訴しました。地裁では裁判記録のうち原告名の掲載は認められたのですが、高裁ではそれもダメと言われてしまいました。

判決文はこちらです。

判決-H29-11-16.pdf

判決理由はさらなる精査が必要ですが、基本的には「紙はよいがネットはダメ」という理屈です。

そうすると、テレコア登記簿図書館のようなものは軒並みアウトということになりかねないですし、紙媒体よりネットの方が人格権の侵害の程度が高いという理屈であれば、報道においても紙媒体とネット媒体ではネットのほうが報道機関にとってより不利な扱いを受けるということになります。

また、裁判で公開されているとはいえ、原告の氏名がプライバシーに該当するというのであれば、刑事事件では起訴されれば裁判で公開になるからという大義名分でメディアが被告人の実名を報道している現状と、どのように整合性を取るのか気になります。地裁判決は様々なメディアで話題になりましたが、今回の高裁判決については、なぜかどのメディアも報じていないようです。

上告はしてみますが、これで電話帳検索サイトは文字通りアングラな存在になりそうです。

部落探訪(50)鳥取市田島・西品治

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鳥取のような地方にも「都市部落」がある。それが、今回訪れた田島たしま西品治にしほんじ地区である。この地区は、おそらく鳥取県下最大の部落であると考えられる。

農村部の部落は人の移動が少ないことが多いが、都市部となると頻繁に人の入れ替わりがある。田島・西品治については地名の変遷もあり、同和地区指定のされ方も複雑で、実態がよく分からない部分が多い。

田島は昔は「たのしま」と呼ばれた。今でも田島を「たのしま」と読む人もいるが、その読み方は差別的だという説もあれば、いや、むしろ「たのしま」が本来の読み方なので今の「たしま」という読み方が差別だという人もいる。このように、どちらに転んでも差別といちゃもんを付けられる現象は各地で見られる。

文献では、1795年の書かれた地誌、『因幡誌』に「高草郡田野嶋村」として出て来る。当時の「穢多村」の軒数は50軒で、既に旧因幡国では最多である。1897年の『山陰之教育第20号』では田島と西品治で合わせて140軒。1923年の『大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査』では田島23軒、西品治156軒。1935年の『全國部落調査』では田島26軒、西品治164軒となっている。そして、1997年の鳥取市役所職員研修資料『同和問題の解決のために』では西品治、田島、松並、元品治、八千代、千代という隣接した地域をまとめて361世帯とされる。

このように、かつては「田野嶋村」の穢多村であったが、それが周辺地域に広がっていったらしい。

ここは、「鳥取市西人権福祉センター」で、かつての「富桑ふそう隣保館」である。ここを起点に探訪を開始する。

ところで、鳥取市の城下町の部落を探訪するために格好のスマートフォンアプリが存在する。それが「鳥取こちずぶらり」である。その名の通り鳥取市の古地図を表示するアプリで、1947年に米軍が撮影した航空写真も収められている。しかも、GPSによって現在地を地図上に表示するという優れものだ。鳥取を旅行するなら、ポケモンGOに加えて「鳥取こちずぶらり」を入れておくべきだろう。

もちろん、古地図に「穢多村」とは書かれていないが、1947年の航空写真では、明らかに田島・西品治の辺りに住宅密集地が存在するのが分かる。部落であるだけでなく都市スラムに近い状態だったことが伺える。

しかし、現地を訪れると、部落であるということはあまり感じられない。区画整理がされた形跡はあるものの、ここでは大阪などで見られたような大規模な改良事業は行われなかった。

これは「時錦登喜治塚」。時錦登喜治という力士の墓のようで、平成3年にこの地区の道路の拡張のために現在地に移転されたとのことである。

細い路地も僅かではあるが残っている。

地区を歩くと、大きな墓地が現れた。ここは西品治共同墓地である。

共同墓地の背景には公営住宅が。ここが一番同和地区らしい風景かも知れない。

ところどころ空き地があるがあまり多くはなく、廃墟もあまり見られない。

ニコイチは少しだけあった。

こちらは田島集会所。どこが西品治で、どこが田島か境界がはっきりしない。同和地区と一般地区の境界も分からないし、同和地区名として松並、元品治、八千代、千代という名前も出てくるので、単に西品治・田島の区域を出れば同和地区ではないということでもないようだ。「鳥取こちずぶらり」でかつての住宅密集地の範囲は分かるが、当時は田畑だった場所も現在は住宅地になっている。

地元でも田島と西品治はまとめて1つの地域と認識されているようだ。

貧乏そうな家が多いわけでもなく、不釣り合いな豪邸があるわけでもない。

こちらは児童館。

この空き地は、田舎の名家だったような佇まいがある。立派な庭と、井戸があったことが分かる。

壁が黒くなった倉のようなものあるので、ひょっとすると鳥取大火の焼け残りかと思ったが、よく考えたらこの辺りは大火の被害はなかった。

老人憩いの家と公園。

ところどころにアパートがあり、住宅も売りに出されている。

地元の住民や不動産業者が土地を売りに出す時に、部落なのかと言われたら「住所は田島だけど同和地区の田島ではない」「西品治だけどここは違う」といった説明をするという話を聞いたことがある。しかし、鳥取市の場合は半ば属人的に同和対策を行っていたので、市役所でさえ明確な線引をしなかったと考えられ、どこが同和地区でどこが同和地区でないかは、それこそ水掛け論だろう。

たとえあからさまに隣保館の隣だろうと「ここは西品治だけど同和地区ではない!」と言い張って土地を売り、それが他人に渡れば、「いや、やっぱりそこは同和地区だ」と蒸し返す人もいないと考えられるので、そうやって虫に食われるように都市部落は解体されていくのだろう。

東京高裁第14民事部第3回審尋

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筆者のマンションが差し押さえられた件で、保全抗告の最後の審尋が11月27日に行われました。これで高裁での審尋は終わりで、今年中に結果が出る見込みです。

示現舎側の書面はこちらです。
準備書面(2)C-H29-11-11.pdf
証拠説明書C-H29-11-11 .pdf

片岡明幸副委員長側の書面はこちらです。
債権者準備書面2-H29-11-24.pdf

今回も、示現舎側の主張は、同和がらみのことではなく、プロバイダ責任制限法関係が主なものになっています。

解放同盟側は、Torを利用できるサイトは危険なサイトであると主張しているのに対し、示現舎側は今の時代、暗号化通信は普通のことでFacebookもTorの利用を推進している、それならFacebookは危険なサイトということになるのか? と反論しています。

片岡明幸副委員長側は、組坂繁之委員長らの自宅にカッターナイフが送られたのは部落解放同盟関係人物一覧が原因だと言った主張をしていますが、それを証明するようなものは示されていません。

裁判書面をネットで公開していることについてあれこれ言っていますが、解放同盟側も裁判の特設サイトを作っていますし、「居直り続ける鳥取ループを徹底的に糾弾しよう」と息巻いているので、特に気にする必要はなさそうです。

また、全國部落調査の復刻版の書籍の発禁の仮処分について、やはり最高裁が特別抗告を棄却したため、仮処分が確定しました。これで本裁判の結果が出るまでは、筆者は全國部落調査を頒布できないということになりました。

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