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Channel: 宮部 龍彦 - 示現舎
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6月26日は東京地裁で全国部落調査事件第5回口頭弁論です

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6月26日14時に東京地裁で全国部落調査事件の口頭弁論が行われます。例によって解放同盟側の動員がかかっているために傍聴は抽選なので、13時40分までに東京地裁の正門付近に来る必要があります。示現舎のメンバーに会いたい方は13時に日比谷公園かもめの広場にお越しください。

当日の19時30分から事後報告放送を行います。
https://www.youtube.com/watch?v=kjYQvBbJBTM

放送は後でも聴取可能です。

今回は、解放同盟側が書面の提出を求められ、示現舎側は特に書面を提出していません。解放同盟側が提出した書面はこちらです。

原告-準備書面3-H29-6-19.pdf

ご覧のとおり、解放同盟の理論が全開です。やはり、解放同盟は解放同盟なんだなと感じます。

私が被差別部落出身者かどうか判別してみろと釈明を求めた件は、なにかと理由をつけて釈明を避けています。

当日に、さらに何か書面が提出されるのではないかと思います。


横須賀市同和住宅「武ハイムA棟」一般化の裏側

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国の同和事業が行われていた時代、全国各地にいわゆる同和住宅と呼ばれる公営住宅が建設された。同和住宅が一般の公営住宅と異なるのは、入居者が「同和関係者」に限定されていることだ。しかし、同和事業が終わってからは、各地の同和住宅では「同和関係者」という入居要件が外され、一般開放された。現在では、ほとんど全ての同和住宅が一般開放され、普通の公営住宅と同じ扱いになっている。

その中でも、最後まで一般開放を拒んできた同和住宅の1つが、横須賀市たけにある「武ハイムA棟」、いわゆる「同和棟」である。詳しくは「月刊「同和と在日」2011年1月号 の記事」をご覧いただきたい。

その同和棟のことについて、すっかり忘れかけていた時、全国部落調査の裁判でその話題に触れたところ、原告の1人である片岡明幸氏の書面に思わぬことが書かれていた。

横須賀市は同和地区住民の住宅対策として市営住宅「武ハイム3棟75室」のうちの1棟25室を同和向け住宅と位置づけ、運動団体の推薦を受けた住民が入居していた。しかし、近年同和地区の入居希望者が少なくなって来たために、今後の入居については一般募集でおこなうことにした。

筆者はその武ハイムの現在の状況を確認すべく、現地を訪れた。

こちらが武ハイムA棟である。武ハイムは3棟からなるが、そのうち一番入り口に近い側の棟である。

ここはA棟の集会所。

実は、この集会所には解放同盟横須賀支部の人権生活相談所の看板が掲げられていたのだが、今はなくなっている。

事情を知る人物によると、武ハイムが一般化されたのは2016年の4月のこと。横須賀市が、A棟の自治会に対して、従来は解放同盟と全日本同和会を通じて行っていた入居者の募集を、市による一般公募に切り替えることを通知した。

しかし、武ハイムA棟は実質的には解放同盟員と全日本同和会員だけが入居者で、そこに一般の住民を入居させることはトラブルが予想されること等の理由で、住民は一般化を拒み、市も二の足を踏んできた。一般化にあたって問題はなかったのか。先の事情通はこう語る。

「別に何もなくて新しい住民とも仲良くやってますよ」

解放同盟と同和会を通じて入居者を集めることができなくなりつつあったのは事実で、一般化前は5つが空き部屋になっていたという。当然、一般化により空き部屋はすぐに埋まった。

運動体側の反発があったのかというと、そのようなことはなく、同和事業を行っていた自治体で同和住宅がほとんど一般化され、武ハイムA棟はその中でも最後の最後まで同和住宅のままだったという状況は認識しており、時代の流れということで運動体は受け入れたという。解放同盟の相談所となっていた集会所からも、解放同盟は完全に引き払った。文字通り全てが一般開放された状態だ。

ただし、3棟のうちA棟だけ住民の自治会が分かれている状態はまだ続いているという。これは同和問題でわだかまりがあるというわけではなく、住民も行政側も自治会を統合する必要性は認識しており、自治会がもつ財産の処理など、事務的な手続きに時間がかかっているためだという。

筆者が取材した6年前は、様々なトラブルを心配して市も住民も一般化に二の足を踏む状況が見られたが、案外一般はすんなりと行われたようである。やはり「案ずるより産むが易し」ということだろう。

はてさて、「差別」を恐れて問題解決を遅らせたのは、誰だったのだろうか。

戦後最大級の倒産!タカタの株主総会はお通夜状態

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タカタと言っても、一般の人には馴染みがないかも知れない。自動車の部品メーカーで主力製品はエアバッグとシートベルトとステアリング(ハンドル)だ。一般消費者向けの製品といえばチャイルドシートくらい。そう言うと地味に思えるかもしれないが、世界の自動車の年間生産台数は1億台くらいで、それぞれに最低4つはシートベルトが搭載され、複数のエアバックが搭載されているのだから、その市場規模は3兆円以上だ。

その巨大市場の中でも日本最大のメーカーがタカタだ。もとは「彦根の織物屋」だったが、シートベルトの生産を手がけて以来大きく成長し、今や年間売上は6600億円となった。毎年数百億円の営業利益を上げてきた優良企業だったのだが、今年の6月26日に東京地裁に民事再生手続きの申立てをし、倒産した。負債総額はまだ確定していないが、1兆円以上と言われており、製造業では戦後最大の倒産だ。

さて、そのタカタの株主総会が、倒産翌日の6月27日10時から行われた。筆者はひょんなことから株主総会の議決権行使書を持っていたので、株主総会に参加することにした。

株主総会の会場である竹芝のニューピアホールに9時には着いていた。開会1時間前にも関わらず会場周辺は国内外の新聞社、TV局の取材陣が集結していた。まるでキャッチセールスのように「タカタの株主の方ですか?」と通りがかった人に声をかける。まさに株主のナンパ状態。そして株主が応じるとそこに各社が殺到して取り囲む。

逆にいかにも”モノを言う株主”といった風体の投資家は「アンタもあれ(タカタ株主)か?」とこちらに声をかけてくれる。「俺は前からタカタにちゃんとせえといってきたんや」と恨み節。しかしそう言いつつも戦後最大級の倒産劇の株主ということを楽しんでいるような印象も受けた。

また朝一番で滋賀から来たという株主にも遭遇した。なにせタカタのルーツは滋賀にある。滋賀と言えば本誌も滋賀県民並みに土地勘がある。株主からは「アンタも滋賀出身か?」と言われてしまった。総会前後の株主たちの反応を見ると、もちろん全ての株主とは言わないが、タカタへの愛着や信頼感も感じた。10年近く前から続いてきたエアバッグのリコール問題がなければ本来は手堅い優良企業、優良株ということの証左だろうか。

入り口では複数の警備員が警戒していたが、以外に平穏だ。特に人だかりが出来ているわけでもなく、すんなりと会場に入ることが出来た。

倒産直後の株主総会ではあったが、ジュースやお茶などの簡単な飲み物が振る舞われていた。議決権行使書と引き換えに、「民事再生手続き申立てについて」というプリントと、小さな封筒を渡された。封筒の中に入っていたのは500円のクオカードだった。

総会が始まると、高田重久代表取締役・会長を始めとする役員一同が神妙な面持ちでエアバッグの不具合の問題を謝罪し、民事再生手続き申立てを報告し、深々と頭を下げた。その後、法律上必要だからということで、型通りの事業報告が行われた。報告によれば、新興国では振るわなかったものの、中国および先進国での売り上げは伸びて、業績は好調だった。30分ほどの事業報告の後、いよいよ民事再生についての説明が行われた。

倒産の原因は、やはりエアバッグの不具合によるリコール問題である。

2008年にエアバッグの不具合が発覚して、エアバッグが事故時に異常破裂して部品が飛び散って乗員が死傷する事故が相次いだ。この問題の原因は、エアバッグの製造工程にあることが特定され、タカタはリコール等のために1000億円以上を負担することになった。

しかし、その後もエアバッグの異常破裂の事故はなくならず、これは別に原因があると考えられたが、今でも完全に原因が特定されていない。外部の研究所の特定では、高温多湿の環境でエアバッグのガス発生剤が変質し、燃焼速度が早すぎて爆発してしまったのだろうということだ。

これはあくまで筆者の見解だが、ガス発生剤のような化学製品が長期に渡って品質が劣化しないか検証するためには、普通、「加速劣化試験」というものを行う。これは様々な方法があるが、代表的なものは「アレニウスの法則」という温度と化学反応の速度の関係の法則を利用するものだ。品質の劣化が化学反応によるものだとすれば、化学反応は温度が高いほど進行が早くなるので、例えば10年後の劣化状態を知りたければ、10年間検証対象の物質を放置する代わりに、高温の環境に晒してやれば、より短い期間のテストで10年後の劣化状態を再現できるというわけだ。

しかし、この方法が有効なのは、温度によって連続的に物質が変化する場合だけであって、湿気などの他の要因による変化や「相転移」と呼ばれる不連続な物質の変化まで検証することは難しい。そして、タカタが使用したガス発生剤には、不幸にも開発時の加速劣化試験で検証できないような劣化の要因があったということなのだろう。

これは技術者にとっては非常に難しい問題だ。例えば原発を設計する場合、不測の事態が起こった場合はどうなるように設計するか。最悪の場合発電できなくても、暴走するよりはとにかく核反応を止める方向に進むように設計する方が安全なはずだ。しかし、エアバッグは違う。ガス発生剤が劣化した場合に、事故発生時にエアバッグが爆発しても、不発になっても乗員の命に関わる。爆発は確かに危険だが、だからと言って「最悪でも不発」というわけにもいかないのだ。

タカタはエアバッグのガス発生剤として硝酸アンモニウム(硝安)を使用した。かつてはエアバッグのガス発生剤にはアジ化ナトリウムが使われていたが、1998年の「新潟毒物混入事件」で犯人が使用したことから毒性が問題となり、代替品が模索されるようになった。この点、硝安は肥料にも使われるような物質なので毒性は問題にならず、しかも反応後の物質が全てガスに変わり膨張率が大きいので少量で済む。タカタの説明によれば「開発したインフレータ(ガス発生剤を含む、エアバッグを膨張させるための部品)により、ステアリングのエアバッグを格納する部分が小さくて済むのでメーカーに喜ばれた」ということなので、硝安を使うことにはそのようなメリットもあったのだろう。

さて、株主総会では、最初の製造工程の問題によるリコールを「αアルファ事案」と呼び、後のガス発生剤の劣化による問題によるリコールを「βベータ事案」と呼んでいた。そして、このβ事案はα事案に比べてはるかに大規模で、原因が特定されないだけに深刻なものであった。

原因が特定されないとは言え、エアバッグを作ったのはタカタであることは変わりない。それでも自動車メーカーとリコール費用の負担割合について交渉する余地はないわけではなかったのだが、ここでタカタの対応がまずかった。タカタはエアバッグのインフレータの試験結果のデータを改ざんしていたことが発覚し、言わば自動車会社を騙していたとアメリカ司法省に対して認めざるを得なくなってしまった。タカタにはアメリカ司法省から10億ドルの罰金が課せられた。

それと並行して、タカタは中国資本の自動車安全部品メーカーであるキー・セーフティー・システムズ(KSS)から支援を受けて再建することを模索したが、自動車メーカーとの隔たりは大きく、交渉は一向にまとまらなかった。

それでも、タカタは6600億円の売上を誇る企業なのだから、金銭的な問題については何とかならないわけではなかったのだが、自動車メーカーからの信用を徐々に失い、特に2017年2月以降、自動車会社がタカタに法的整理を求めているという報道が度々されるようになってからは信用不安が広がり、取引先との取引条件が厳しくなり、銀行も徐々に融資を継続しなくなるような状態だったという。そして、株主総会の直前になってついにギブアップしてしまったというわけだ。タカタは今後、倒産企業として会社の資産をKSSに15億8800万ドル(約1800億円)で売り渡し、そのお金で債務を返済することになる。

それでは、株主の運命がどうなるかと言うと、会社の説明では最終的にどうなるかは裁判所の判断次第だが、債務超過の倒産企業の株なのだから、いずれにしても無価値になるだろうということだった。

さて、いよいよ質疑応答の時間だ。すわ怒号が飛び交うかと思ったら、そんなことはなく、株主は至って冷静だ。質疑応答では、高田重久会長が憔悴しながらも、丁寧に長々と説明するので「マスコミにもそんな風に説明すればよかったのでは」と株主から突っ込まれる一幕があった。また、重久会長の声があまりにも元気がないので「もっと分かりやすく」と株主から声をかけられ、その時は「申し訳ありません」と大きな声で話し始めるのだが、次第に声が弱くなってまた株主席から声が飛ぶということが何度かあった。

筆者も1つ質問してみた。倒産の原因がエアバッグの問題であることは分かりきっているのでさておき、もう1つの主力製品であるシートベルトはどうだったのか? 重久会長の説明によれば、自動車メーカーによって対応にかなり違いがあるが、エアバッグだけではなく、シートベルト等の他の部品についても発注を止められることがあったという。しかも、自動車の部品は車体と一緒に検査して国交省の認可を受けないといけないため、即座に発注を止められるものではないので、2~3年のスパンで考えないといけないということだった。そして、その問題に対処するのはKSSの経営者次第ということで、今後タカタの資産を引き継いだKSSによって立ち上げられる企業も、しばらくは前途多難であることを示唆した。

一方、外の様子はどうかと言うと、総会中の会場から中座した株主が出て来る度に、ご覧の通りメディアに取り囲まれる有様だ。しかも、メディアは重久会長の責任を問う怒号が飛び交うような状況を期待しているようだった。しかし、多くの株主の反応はクールなものだ。

「このような株に手を出した株主の責任なので」「ちょっと少額手を出してみただけなので」

そんな反応があればメディアは離れ、また別の株主にコメントを求めるということの繰り返しだ。

実はタカタの株価は2014年以降どんどん値を下げ、2016年に入ってからはピーク時の10分の1程度になっていた。さらに2017年に入って信用不安が広がってからは、堅実な投資家は早々と売り払ってしまい、倒産回避による一攫千金を目論む投機家が集まり、いわゆる「仕手株」のような状態になっていた。タカタ株は何か報道がある度に乱高下するスリリングで異様な値動きから、パチンコになぞらえて「CRタカタくん」とまで言われていた。

株主総会に参加できるのは2017年3月末時点で株を持っていた人だけなので、株主総会に訪れた株主にどのような人々が多いのか、推して知るべしである。

しかし、前述の通り中にはタカタの創業の地である滋賀県からはるばるやってきたという人も何人かいた。そのことに、重久会長も少し気分がほぐれたのか、社外のある人から「お前は対外的に発言するな」と言われたために自分の口から多くを説明できずにいたことを謝りつつ、倒産に至る過程を話し始めた。

実はスポンサーがKSSに内定する前に、競合メーカーやファンドなど40社位に声をかけたという。約1800億円というのはタカタのような優良企業にしては買い叩かれたものだと株主から不満の声が上がったが、問題は単純ではなかった。重久会長によれば欧州のメーカー(社名こそ出さなかったが、世界最大のエアバッグメーカーであるオートリブのことであると考えられる)に買収してもらう話があったが、それでは規模があまりに大きくなりすぎるため、反トラスト法の問題があって断念したという。KSSに決まったのは、KSSが比較的小さな企業だから買収がスムーズに行くと考えられるからだった。中国資本に買収されることで、中国への技術流出を懸念する声もあるが、タカタにとっては苦渋の決断だった。

全般的に、「タカタの株主は優しいな」と思いつつ質疑応答を見ていたが、中には厳しい質問があった。「道義的な責任として、高田家が私財を投げ打つつもりはないのか」という質問がされると、重久会長は「私財と言っても、ほとんどは株式なので、それがどうなるかは裁判所の判断に委ねるしかないですし、他に事業をやっているわけでもありません」と答えた。さらに「屋敷を売るつもりはないのか」と畳み込まれるとさすがに絶句して「総会の決議事項と関係ないので回答を控える」(これは、企業が株主総会で株主からの質問に答えない場合の定型句のようなものである)と、答えるのみだった。

さらに、別の株主から何らかの形での謝罪は考えていないのか、私財を投げ打って自動車の安全についての研究所を作られたらどうかと提案があった。

「私としても申し上げたいことはたくさんあるし、謝罪の仕方も考えてはいますが、多方面からあってそれができない状態です。いずれ説明する機会を設けたいと思います。最後のご提案については考えさせていただきたいと思います」

重久会長は、時々息をつきながら、そう答えた。

最後に、重久会長等6人を引き続き取締役として専任する旨が決議された。半分以上の株は高田家が持っているので否決されることはないし、何より今となっては株主にとってはどうでもよいことかも知れない。会場には元気のない拍手の音が響いた。

部落探訪(34)横須賀市林2丁目

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先日、武ハイムの話題をお伝えしたが、この武ハイムのルーツとなったのが、林部落である。武ハイムは当初は林部落住民の住環境改善のために建設された。

武ハイムから県道26号線を有無に向かって進むと、途中に「武山市民プラザ」がある。ここは、実は武ハイムの建設候補地だったという。さらに進むと、別名「林ロータリー」とも言われる、林交差点に突き当たる。


そこに林部落への入口がある。


ここは路地というより、横丁で、一見さんには入りづらい店が並んでいる。

ここは、武ポンプ場。1974年に水害対策のために建設されたという。「ドローン禁止」の注意書きが有る。裏を返せば、ドローンで撮影した人がいたということか。

さらに進むと、畑と住宅が入り混じっており、地元野菜の直売所がある。この日は美味しそうなキュウリが青々と実っていた。

古い農家があり、道が徐々に細くなっている。この日はスーツを着た不動産業者らしき人が、あちこちの家を廻っていた。土地の買い取りの交渉のためだろうか?

そして、公園にたどり着いた。この公園の周辺が部落で、1934年当時で32戸だったという。

公園の周囲には細い道があり、たしかに部落の面影がある。

神権連の機関紙『人権のとも』2007年12月15日によれば、部落には白山神社があるという。しかし、公園の周囲を散策しても一向に見当たらない。

「この近くに祠のようなものがなかったですか?」住民に聞くと、「あったけど、昔のことだよ」と返事が返ってきた。

「ほら、あの無人販売所のところ」

公園の隣に野菜の無人販売所がある。昔はここに白山神社があったそうだ。

『人権のとも』に掲載された写真と見比べると、確かに周囲の家の壁や窓やフェンスの形が一致している。

その後白山神社は公園の近くの、この茂みに移されたというが、ここにも白山神社の姿はない。

グーグルアースには緑色の屋根の神社の姿が見えるので、本当にごく最近まであったのだろう。さきほどの写真でブロックが新しくなっているところが、白山神社のあった跡だ。

近所の人は証言する。

「もう誰も管理する人がいなくなったから、お寺に返したって」

そのお寺はどこなのか聞いてみたが、「そこまでは知らない」ということだった。

ところで、この林部落には大正天皇にまつわる逸話がある。現在、海上自衛隊武山駐屯地になっている場所は、かつては林部落の一部だった。この海岸からの眺めが美しいと聞いた大正天皇は、わざわざ景色を見るためにこの地を訪れた。そのことを記念して、この場所は「御幸浜みゆきはま」と名付けられた。

その御幸浜の海岸は、残念ながら一般人が入ることが出来ない。しかし、基地の隣の富浦公園から、海岸の景色を眺めることが出来る。

この日は雲が出ていて、空気がやや霞んでいたが…

実は筆者は一昨年の元日にここを訪れて写真を撮っていた。条件が良ければ、このように富士山まで見渡す事が出来る。

川崎市同和相談事業の謎(2)解放同盟が一般社団法人に?

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前回の記事では、「多くのメディアも行っている第3の道」などと思わせぶりなことを書いてしまったが、要は情報公開制度を当てにしないで自分で調べるということである。筆者は情報公開訴訟で勝つことも負けることもあったが、負けてもそれで終わりではなく、独自に調べるという第3の道を模索してきた。

一番の興味は解放同盟、同和会、人権連の3団体の支部がどこにあるのかということである。まず、解放同盟から調べると、思いもかけないことが判明した。

解放同盟神奈川県連はダメ県連?

神奈川県の同和団体事情は非常に独特だ。放同盟、同和会、人権連が正式に県が交渉している団体で、市町も同様の対応をしており、3団体の勢力が拮抗している。そして、それぞれの団体の活動も他の都府県と比べて、非常に「ゆるい」ように見える。

例えば、2011年に作家の塩見鮮一郎氏が著書「新・部落差別はなくなったか?」で神奈川県内の部落を写真入りでレポートしたことについて、解放同盟が塩見氏と「話し合い」を行ったことがあった。この時、ある意味「当事者」であるはずの神奈川県連は、塩見氏に対して抗議しているというよりは「そこは部落ではない」とツッコミを入れていた。

塩見氏の一件の経過を見ると、むしろ、問題視しているのは中央本部や東京都連の方で、神奈川県連はそれらに急き立てられて、渋々ながら参加しているような印象を受けた。実は本誌が関わっている「全国部落調査」のことについても、似たような状況があったという。事情を知る人物はこう語る。

「全国部落調査の件で、神奈川県連は中央本部から責め立てられていたようですよ。示現舎は(神奈川県連)川崎支部の目と鼻の先にあるのに、何も対処しないのかと」

しかし、示現舎には今のところ神奈川県連からも川崎支部からも、何の抗議も受けていない。不思議な事だが、結局神奈川県連や川崎支部は何もしなかったということだろう。

神奈川県連自体が、以前から解放同盟の中でもやる気のない県連と見られていて、「ダメ県連」と言われているという声も聞かれる。神奈川県連の特徴としては、委員長を始めとして幹部に元公務員が多いという。それゆえ、役所とのしがらみがあり、あまり「イケイケ」なことはできない、ということがあるのかも知れない。

「一般社団法人部落解放同盟神奈川県連合会」登記の不可解

解放同盟神奈川県連川崎支部について調査しているうち、「部落解放同盟神奈川県連合会が一般社団法人として登記されている」そのような情報が筆者に寄せられた。

しかし、これは解放同盟について知っている者からすれば信じがたいことだった。解放同盟をはじめとする部落解放運動団体には、「解放運動は部落民による自主自立の運動」という建前がある。それゆえ、登記することで行政のお墨付きを得ることはタブーとなっている。もっとも、これも形骸化していて、関連団体をNPO等として登記することは普通に行われている。ただ、それでも部落解放同盟本体を登記するということは聞いたことがない。

半信半疑で、法務局で登記簿謄本を請求してみると、確かに「一般社団法人部落解放同盟神奈川県連合会」という名前で登記されているのが確認できた。登記されたのは今年の3月30日で、ごく最近のこと。主たる事務所の住所は川崎市麻生区王禅寺とある。

登記の内容は不審なことだらけだった。第一、部落解放同盟神奈川県連合会の事務所は山北町岸にあるはずだ。なぜ川崎市の、しかも部落でない場所で登記されているのか不可解だ。そして、理事の名前が「土谷哲明」「土谷滿男」になっていることだ。神奈川県連の委員長は三川哲伸氏であるはずだ。

筆者は、実際に登記された事務所の場所を訪れてみた。周辺は新興住宅地のようで、明らかに部落ではない。

そして、問題の住所には大きな黒い家があった。ガレージがあり、自動車が何台が置かれていたので、どうも自動車に関連した事業を行っているようだ。

インターホンを押すと男性が出てきたので、「部落解放同盟川崎支部ですか?」と聞くと、「そうです」ということだった。しかし、示現舎であることを告げると、さすがに「話すには支障がある」と断られた。当たり前といえば当たり前だ。

それにしても、なぜ部落解放同盟川崎支部がここにあるのか、なぜそれが部落解放同盟神奈川県連合会として法人登記されているのか、むしろ謎が増えてしまった。

とある運動団体関係者に部落解放同盟神奈川県連合会が法人登記されたのを知っているか聞いてみると、「そんなことは始めて聞いた」ということだった。「もしかすると、エセ同和団体ではないか?」と不審がられたが、「土谷滿男」という人が理事になっていると言うと、さらに不思議がられた。

「滿男さんなら知ってますよ、以前は確か県連の委員長をやっていましたよ」

「土谷滿男」という人物は、実は神奈川県の運動団体関係者の間でも有名で、解放同盟神奈川県連の設立にも関わった古株中の古株だという。ただ、神奈川県の部落出身というわけではなく「東京から来た」ということだ。

さらに取材を進めたが、神奈川県連の法人登記については、誰もが初耳だと言うのみだった。おそらく、何らかの考えがあって、土谷氏が独断でやったことなのではないかという。そして、川崎支部のメンバーはおそらく数十人程度で、その中に川崎市内の部落にルーツがある人がいないわけではないが、ごく僅かということだ。

それでは、行政から委託された相談事業にはどのような意味があるのだろうか?
(次回に続く)

多摩、神奈川で増殖中「トランプのお米」とは?

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最近、東京の多摩地域と神奈川県の県央地域で自動販売機で売られている「トランプのお米」、あるいは「Trump Rice」なるものが、静かな話題となっている。現在「トランプのお米」でグーグル検索しても1つしか出てこず、「Trump Rice」で検索してもドナルド・トランプとライス元アメリカ国務長官の写真が出てくるだけだが、「Trump rice vending machine」で検索すると「トランプのお米」の画像がいくつか出て来るので、日本に来たアメリカ人の間でも少しずつ話題になっているようである。


ということで、「トランプのお米」が売られているという、座間市役所前にやってきた。問題の自販機の1つは座間市役所交差点にある。

自動販売機なので、24時間年中無休、しかも人件費がかからないという。確かに周辺のスーパーで買うより安い。グーグルマップで「ライスショップ新潟屋」で検索すると、少なくとも6件の店舗が確認できる。

買う方法は簡単で、ここに現金を入れてボタンを押すと、米の袋が出てくる「ドサッ」という音がする。

そして、出てきたのがこれだ。「おいしくて安全」と大書され、アメリカのドナルド・トランプ大統領が星条旗を背景に人差し指を立てて「食え!」とシャウトしている。なかなかのインパクトである。

要はアメリカ・カリフォルニア産の米で、日本の米とは違う「カルローズ」という品種らしい。見た目は日本の米とあまり違わないように見える。

ところで、今から20年以上前の1993年、記録的な冷夏で米が不作で、やむなく東南アジアから輸入された米が出回ったことがあった。主にタイから輸入されたために「タイ米」と呼ばれ、これがすこぶる不評だった。パサパサして美味しくない、変な臭いがすると、多くの米が捨てられて無駄にされた。

しかし、これは調理法に問題があったためだ。産地では日本のように米を炊くのではなく「茹でる」ことが多く、炒めて味付けした食べ方が一般的だ。すると、トランプの米なら、それに適した調理法があるはずだ。

早速、発売元の新潟屋に聞いてみると、案外そっけない答えだった。

「普通に炊いて頂いて結構ですが、ネットで調べるといろいろ出てきますよ」

ついでに、なんで「トランプのお米」なのか聞いてみた。

「名前はメーカーの方が付けたもので、やっぱりカリフォルニア米だからじゃないでしょうか。(トランプが)話題になってますし」

どうも、新潟屋ではなく輸入者がこの名前で売り出したらしい。

助言に従って、ネットでカルローズの調理方法を調べてみると、日本の米のようにしっかりと研いで水に浸してから炊くのではなく、さっと1回だけ洗ってすぐに炊くのがよいらしい。

ここは炊飯器を使わずに、あえて鍋で炊いてみた。この時点で、確かに日本の米とは違うことが分かった。昨今の日本のブランド米であれば、炊いている間にいかにも米という香りが漂ってくるのだが、トランプ米はそれがない。はるかに香りが薄いのである。

茶碗に盛って食べてみた。感想は、決して不味いことはなく、これはこれでアリなのでは、という感じである。炊き方の影響もあると思うが、1つ1つの粒がしっかりしており、弾力がある。もっちりではなく、プツプツとした感触だ。

白米で食べてもよいが、粒がしっかりしているのでチャーハンには向いてそうだし、寿司飯の用途にはむしろ日本の米よりも向いているかも知れない。

トランプ大統領と言えば、TPPにストップをかけるなど保護主義政策が批判されているが、もし自由貿易が推進され米の関税が安くなれば、これは日本の米にとって脅威となることだろう。おそるべしトランプのお米。

それにしても、カリフォルニア米が、むしろ日本での普及を阻んでいるトランプ大統領の名前で売られるとは皮肉な話だ。

東京高裁第15民事部第2回審尋

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全国部落調査のインターネット上等での公開が差し止められた件で、保全抗告の第2回めの審尋が7月11日に行われました。これで審尋は終わりかと思ったのですが、結論から言えば次回もあります。

解放同盟側が提出した書面はこちらです。

債権者準備書面B-H29-7-11.pdf

そして、示現舎側が提出した書面はこちらです。

準備書面B-H29-7-5.pdf
証拠説明書B-H29-7-5.pdf
証拠説明書B-H29-7-11.pdf

裁判官が気にしたのはドメインの管理者であればサイトの管理者であるということになるのかということと、「同和地区.com」の管理者は誰かということです。インターネットがからむ事件は裁判所が扱い慣れていないため、慎重にやるようです。

そして、「同和」にからむ問題として、裁判官は地名にまで人格権が及ぶのかということを気にしていました。同和がからむと、当然のように地名がタブーにされていますが、同和を抜きにすれば人の人格が土地や地名にまで及ぶというのは異常な考えなので、気にして当たり前だと思います。

また裁判官からは「島崎藤村の破戒という小説がありますが、自分の出自を隠す主人公の態度が“丑松根性”と言って批判された時期があったのではないですか?」という発言がありました。当然、解放同盟側は「自らが出自を明らかにするのとアウティングは違う」といった趣旨の反論をしますが、私は「そんなルールはなくて、少しまでまで学校で盛大にアウティングしていました」と反論しました。

結局、今回では決着がつかず、次回もやることになりました。

次回審尋は8月22日13時15分からです。

ついに横浜地裁相模原支部が「被差別部落出身者」認定をする

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以前、横浜地裁が解放同盟の組坂繁之委員長らを「同和地区出身者」認定したことをお伝えしました。その際は、解放同盟の書面では「被差別部落出身者」とあるのを裁判所が「同和地区出身者」に言い換えていたのですが、今回はそのまま「被差別部落出身者」で決定が出されました。

以下は、7月11日付で出された、解放同盟の片岡明幸副委員長が筆者の自宅を差し押さえた仮処分についての保全異議の決定です。

横浜地方裁判所相模原支部決定-H29-7-11.pdf

決定は次の通り述べています。

債権者は,まさしく全国部落調査データに記載されている地区の一つの出身であることを述べているし,債権者が部落解放同盟の副委員長を務める者であることは債務者も争っていないところ,債権者が,子供のころから,被差別部落の出身者として嫌な思いをしてきたことがあり,面と向かって同級生から侮辱的発言を受けたことすらあった等と自らの経験を記載し,そのような屈辱的な思いがあって,学生時代から部落解放運動に参加するようになったこと等を記しているその内容は,十分に信用性があるというべきであって,債権者が被差別部落出身者であることについての疎明は尽くされているというべきである。

この債権者というのは、片岡明幸副委員長のことです。詳しくは書面の内容をご覧ください。

出身地が全国部落調査に記載されており、解放同盟の役員で、被差別部落の出身者ということを作文で主張していれば「被差別部落出身者」ということになるようです。ただ、不可解なのは裁判の記録を見たところでは片岡氏の出身地は伏せられていますし、出身地が全国部落調査に記載されているとは言っていません。

いずれにしても、筆者としては部落が常に「被差別」であるとは思っていないし、ここまでくるともはや裁判所の決定自体が「差別文書」に近いものなので、東京高裁でさらに争うことになります。


部落探訪(35)神奈川県横須賀市野比“中村”

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横須賀市野比と言えば、「ドラえもん」の主人公的キャラである「野比のび太」の名前の由来になったという説があるが、そこに部落があることはあまり知られていない。

最寄り駅はYRP野比駅。YRP(横須賀リサーチパーク)は駅の北西にあるが、部落は逆方向の南東にある。小字名は「中村」、1934年当時は11戸とちいさな部落である、


部落は小高い場所にあり、坂道の上にある。道は広くはないが、中型トラックなら通れるくらい。このような場所は横須賀ではありふれており、あまり部落という感じはしない。


見るからに金持ちそうな家があり、古い家もあるが、全般に新しい家が多い。家の窓からは海を見渡すことができ、駅は十分に歩いていける距離なので、立地は悪くない。むしろ、いい。

神権連の機関紙、『人権のとも』2007年12月15日号には、横須賀の「B地区」として紹介されている。

『人権のとも』に掲載された、地区内の白髭神社の写真。

これが、その神社である。

意外に立派な神社で、境内の林は天然記念物に指定されているという。

神社の前には広場があって、地域の様々な行事が行われる。

その行事の1つが「中村の虎踊り」。以前、阿波市吉野町の秋祭りの動画を紹介したら、部落の子供を晒し者にしているなどとデタラメなことを言って発狂している人がいたが、この動画にも発狂するのだろうか。これはとても10軒程度の部落では維持できないレベルで、企業からも寄附があり、周囲の住民も祭りに集まって来ていると思われる。どう見ても融和してます。

神社から部落を見下ろす。

広場の横には立派な町内会館があった。

新しい家が立ち並ぶ中にも、田舎らしい民家があり、少しだけかつての部落の面影が垣間見えた。

川崎市同和相談事業の謎(3)同和会の事務所は川崎市にはない?

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前回は部落解放同盟川崎支部の実態について説明したが、今回は全日本同和会について調査した。

全日本同和会は解放同盟ほど目立たず、その活動の実態は一般にはあまりには知られていないが、意外にも主要な同和団体の中では最もオープンである。何より「同和」と直球な看板を掲げているし、Youtubeで「全日本同和会」で検索すると、集会の様子を撮影した動画がいくつも公開されている。

たまたま、過去の全日本同和会の集会で配られた資料を持っていたので、改めて確認してみると、全日本同和会川崎支部の住所がしっかりと書かれていた。住所は川崎市宮前区野川で、支部長は近藤さんという人らしい。

早速、現地に行ってみると、トランクルームと作業場のような建物があるだけだ。

しかし、これは驚くべきことではない。全日本同和会は同和団体というよりは、“土建屋の組合”と評され、会員には自営業者や企業経営者が多い。自治体から仕事を請け負っている業者も多く、そのために「同和団体」という看板をある意味利用していることを隠す素振りを見せない。ただ、それでも一応部落に事務所が置かれていることもあるのだが、川崎のトランクルームのある場所は明らかに部落ではない。

「全日本同和会の支部長さんはいますか?」

トランクルームの事務所に家族と思われる女性がいたので聞いてみると、支部長は高齢のために既に支部長は止めて、同和会の活動からも離れているとのことだった。今は別の人が支部長になっていると思うが、よく分からないという。

神奈川県内の団体関係者に聞いてみると、それこそ20年位前までは全日本同和会には胡散臭い人が多く、ヤクザの集まりかと思われるような状態だったという。これは、当の全日本同和会の関係者もしばしば認めていることだ。実際、暴力団も関わっていたのではないかという声も聞かれる。

しかし、2003年に同和地区の企業向けの貸付金を巡る出資法違反事件をきっかけに、そのような人は一掃されたという。興味深いのは、同時期に全日本同和会から抜けた怪しげな人が解放同盟に入会を申し込んでいたこともあったそうだ。

一方、最近は全日本同和会から分裂した団体である自由同和会の動向も見逃せない。先日、三品純がお伝えしたとおり、ここ神奈川県でも自由同和会が巻き返しを狙う動きがあるという。従来、神奈川県は解放同盟、人権連、全日本同和会の3団体を行政の交渉団体としてきた。それ以外の団体は言わば蚊帳の外だったわけだが、部落差別解消推進法が出来たことで、自由同和会からの交渉の求めに対して、県が無視することができなくなっているという。

さて、全日本同和会川崎支部のことに話を戻そう。筆者が持っている集会資料には、川崎市の全日本同和会の会員として「塘地さん」という別の名前の人物が登場する。電話帳で調べてみると、横浜市鶴見区に同じ名前の人が存在する。

早速電話して、「全日本同和会の川崎支部について聞きたい」というと、特に否定はされなかったので間違いないようだ。ただ、取材を申し込むと「そのことについてはお受け出来ません」と拒否され、さらに電話も着信拒否されてしまった。

ただ、分かったのは解放同盟も全日本同和会も、少なくとも住所からすると部落とは直接関係なさそうで、全日本同和会に至っては川崎市内ですらないことだ。
(次回に続く)

ネットの電話帳裁判、大阪高裁「難しい事件」

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ハローページに掲載された個人の住所・電話番号を公開しているネットの電話帳が提訴された事件、京都地裁が個人情報の削除を命ずる判決を出しましたか、双方が控訴して大阪高裁に持ち込まれています。昨日控訴審の口頭弁論が行なわれました。

民事事件では控訴審は一回の口頭弁論で終わる事が多いのですが、この事件では2回目が行なわれることになりました。

双方が提出した書面はこちらです。

一審原告の理由書
http://bit.ly/2su9Am4

一審被告(ネットの電話帳)の理由書
http://bit.ly/2txnALh
http://bit.ly/2sufdjR

※さらに当日提出された書面があります。7月30日に掲載します。

この事件は、裁判の当事者の名前をネットで公開することを京都地裁が認めた事件でもあるのですが、そのことについて島崎弁護士は裁判を受ける権利を侵害すると反発しています。

一方、ネットの電話帳側は、何をもってプライバシーと言えるかという裁判所の判断が恣意的であること、電話帳データが災害発生時に有用であることなどを主張して徹底抗戦です。

山田陽三裁判官は「これは難しい事件だと思う」と言いました。

なぜなら、電話帳に掲載されている個人は何千万人にもなるので原告一人の希望で他の人の意思を無視して一律に判断してよいのかという問題があるとのことです。そして、過去の判例は単に住所と名前ではなくそこに他の情報が加わったものが問題となったもので、今回のように純粋に住所・名前・電話番号だけの情報が問題となったのは前例がないのではないかということです。

すると、ただ気持ち悪いというだけの理由で当然のように削除が認められるとはならないわけで、原告特有の事情はないのかと言われました。

ネットの電話帳にとっては有利な展開と言えますが、削除を認めるとしてもあくまで原告一人だけに影響を止めたいと取れます。

結局次回もやることになりました。

次回は9月5日15:00大阪高裁83号法廷です。

部落探訪(36)兵庫県宍粟市一宮町嶋田

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今回は兵庫県の宍粟しそう市にやってきた。以前掲載した伊和神社の記事について覚えていらっしゃる方は既に察しがついていると思うが、伊和いわ神社と嶋田しまだ部落の関係について実際に現地で確認するためである。

嶋田部落は1935年当時で107戸あったというから、農村にしては大きな部落である。

先に、嶋田部落が2000年から祭りに参加するようになったという伊和神社を訪れた。大きな神社で、神社の前は道の駅になっており、地元の野菜や土産物を買うことができる。嶋田部落は、この伊和神社から2キロメートルほど南にある。

そして、これが嶋田部落の南のはずれにある七社ひちしゃ神社。もとは、揖保川いぼがわの川縁にあったが、堤防の建設のために今の場所に移された。

七社神社の創立年は不明で、天平宝字年間(西暦757から765年)には既に存在したとされる。一方、伊和神社は西暦144年の創立と伝えられるが、実際にどちらが古いのかは地元では諸説あるようだ。

神社の横の民家のコンテナに「金のいらない仲良い楽しい村」の文字が。この部落のスローガンだろうか。

部落の中を歩いて気づいたのは、空き地・廃墟・ニコイチという同和地区に見られる3要素があまり見られないことだ。空き地や廃墟はないわけではないが、兵庫県の田舎ではごく普通の光景である。これは、見た目だけで部落と判断するのは困難である。

と思ったら、「いきがい創造センター」という立派な建物が。もしかすると隣保館か? と思ったが、これは市の所有ではなく、自治会館のようなもののようである。

自治会の掲示板。嶋田地区の人口ピラミッドがあるのが面白い。自治会の活動が活発で、いろいろやっているようである。

地元の老人から伊和神社と七社神社の歴史について話を聞くことができた。

「嶋田は伊和神社の祭りには参加できんかった。差別されとったからな。だけど、最近村でも屋台を作って参加するようになった」

確かに嶋田は伊和神社の氏子ではなく、さきほどの七社神社の氏子であるという。老人によれば、七社神社は伊和神社の仮の宮として作られたもので、伊和神社よりも歴史は古く、伊和神社が作られた後は不要になるはずが、そのまま残っているのだという。

嶋田部落が伊和神社の氏子でないことは差別と考えないのかと聞くと、こんな答えだった。

「差別も何も、藩が違うから。嶋田は三日月藩、他は姫路藩」

氏子の問題というのは、部落差別というより、そもそも別の領地だったという歴史的経緯ということが真相らしい。伊和神社の氏子に入れてくれと住民が要望することもないそうだ。

それでは、宍粟市に解放同盟が抗議したのは一体何だったのだろうか。

「解放同盟? ワシも若い頃はあっち行ったりこっち行ったりしとったよ。新しい時代のためにな。だけど解放同盟は十年以上前から活動していないし、若い人は興味がない。今は、周りの村とはみんな仲良しや」

古いニコイチが1軒だけあった。

タックスフリーの米軍基地内の買い物はお得か?

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昨今では米軍基地というと沖縄ばかりが注目されているが、神奈川県も基地が多い県の1つである。当然、厚木基地などでは飛行機の離着陸に伴う騒音が常に問題となっている。

一方、基地で働いている地元住民も多く、飛行機の離着陸コースでは騒音対策のための住宅の工事費用が支給されたり、周辺自治体には基地に関する補助金や交付金が出ているのも事実である。

米軍基地は案外オープンで、基地で働いている知り合いがいれば一緒に入らせてもらったり、米軍基地内の英会話教室に通ったり、地元の自治会が招待されたり、様々な名目で普段から基地内に入ることは難しくはない。

ただ、基地内での買い物は制約が多い。基地内は日本国外と同じ扱いなので、当然消費税はかからない。しかし、基地から物を持ち出せば「輸入」という扱いになるので、本来は税関を通して、関税を払わなければならない。ところが、一時期基地内で買ったものをインターネットオークションで転売(これは当然ながら脱税ということになる)する人がいて問題になり、最近はそのような行為はもちろん、基地の外から入ってきた人が基地内のスーパー等で買物をすることも制限されている。

しかし、オープンベースと呼ばれる基地の開放イベントの時だけは来場者のために堂々と物が売られることがある。オープンベースは花見、独立記念日、盆踊り、ハロウィーンと、何かと理由を付けて(あるいは大した理由もなしに)案外頻繁に行われている。

実は昨年、キャンプ座間のオープンベースでフリーマーケットが企画されたことがあったが、直前になって突然オープンベースではなくなって基地内向けだけになってしまったことがあった。さすがに物販がメインのイベントはまずかったようだ。

しかし、先日の8月5日のキャンプ座間日米親善盆踊り大会で、再びフリーマーケットが企画されていたので、行ってみた。

キャンプ座間は在日米陸軍の司令部がある、兵站基地である。ここで働いているのはほとんど将校以上の階級の人で、そのためか基地の外で軍人が暴れたとかいった事件はあまり聞かない。軍属の息子が近くの神社に放火したとか、将校が秘書の日本人女性にセクハラしたといった話が何年に1回かあるくらいだ。

ちなみに、飛行機の騒音がうるさい厚木基地周辺でも、キャンプ座間周辺だけが静かなのは、ここには将校の家族向け住宅があるので飛行機が避けて通るようになっているからだとも。

フリーマーケットが行われている場所に行ってみると、あまり多くはないが人が集まっている。今回は中止にならなかったようだ。

ただ、売られているのは衣類や子供用品がほとんど。値段は中古品としてはまあまあ妥当な価格で、転売して儲けようということは、あまり期待できないようだ。ただ、子供向けのおもちゃの中に、X-BOXのソフトが格安で混じっていたりするので、そういうのが狙い目かも知れない。

米軍のレーション等が売っていることを期待したのだが、さすがにそういう物はなかった。

キャンプ座間のイベントでは必ず展示されるブラックホーク。見るだけではなく、兵士と一緒に写真を撮ったり、触ったり、操縦席に座らせてもらうことも出来る。

軍属(業者)や兵士の有志の露天が並ぶ。業者と有志の店の違いは、ざっくり言えば日本語が通じるのが業者の店、英語だけなのが有志の店だ。人気の店には行列ができる一方、閑散としている店もある。

為替相場が1ドル=100円前後で推移していたころは、100円玉は1ドル札と等価ということで、ドルでも円でも買い物できたのだが、昨今の円安でチケット制になってしまった。レートは1チケット=110円。

露天の食べ物は、ビールは300mlが3チケットから5チケット。大きめのボトルのビールは25チケットで、詰替えは18チケットだ。ピザは10チケットくらい。肉料理は安くはなく、しかも当たりハズレが大きい。業者の露天は食べ物の質はよいが、5チケットの「ジビエメンチカツ」を買ってみたらコロッケみたいな大きさのがたった1つだった。また、兵士の店はとてつもなく不味いものが出てくることがあるので注意が必要だ。30チケットくらい買っておいて3分の1は無駄にする覚悟が必要だろう。人気のない店は徐々に値下げを始めるので、不味さも含めて楽しみたいなら、それを狙う手もある。

オープンベースの時以外も、基地内のスターバックス等で食事は出来る。ただ、必ず基地内で食べ切らないといけないというルールがある。少し前までは、オープンベースの時も食べ物を基地外に持ち出さないように税関が呼びかけていたが気にする人はおらず、基地内で買ったピザやケーキを堂々と持ち出している人がいるのが実情だった。

子供向けの特設の遊園地もあり、エア遊具の類は1回3~5チケット。

なんと、中古車が売られている。販売員に聞いてみると、自動車税等込みでこの値段らしい。基地の中なのだから消費税はかからないのかと聞くと、よく分からないけど、基地の外にお店があるので…と要領を得ない返事だった。

子供向けの銃のおもちゃや、自衛隊グッズを売る露天。こちらは良心的な価格で、消費税もかからない。最近は税関からクレームが付かなくなったのか聞いてみると、こういうことだった。

「確かにいろいろ言われた事があったけど、今はもう何も言ってこないよ。今回みたいなお祭りの場合は特例ということになっているから」

調べてみると、日米合同委員会で日米親善のためのイベントであれば関税法の例外とするという合意が出来ているとのこと。つまり、祭りの時は堂々と買い物をしてもいいし、基地の外に持ち出しても問題ないそうだ。

ということは、ひょっとするとあの中古車も無税で買えるのか? もし、それなら、かなりお得な話である。しかし、さすがにそれはないようだ。さきほどの、業者のおっちゃんはこう語る。

「ああ、あれは、基地の中の人に売っているものだよ。もし、基地の外に出して日本のナンバーを付けようと思ったら、びっくりするくらい税金を払わされるよ」

やはり、基地の中の物を転売して儲けるのは難しいようだ。

ただ、唯一本当にお得と思われるのが、こちらの衣類である。スマートフォンで相場をチェックしてみると、確かににかなり安いものがある。

部落探訪(37)兵庫県たつの市新宮町段ノ上南部

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※示現舎はお盆休みのため、8月18日まで更新をお休みします。

今回は、訳あって兵庫県たつの市までやってきた。神戸以外の兵庫県は全国的には知られていないが、たつの市を知らない人は多くても、そうめんのブランド「揖保乃糸いぼのいと」を知らない人はいないだろう。

揖保乃糸は兵庫県の揖保川流域で作られるが、たつの市はその中でも中心地だ。「そうめんの里」にはレストランと販売所があり、本場の揖保乃糸を味わうことができる。

その、そうめんの里から北西に3キロメートルほど行ったところに部落がある。月刊「部落」1967年1月号「現地報告 兵庫県の部落―新宮町仙正せんしょう部落」に、現在たつの市になっている旧新宮町の部落について解説されている。それによれば、当時の新宮町段ノ上部落の戸数は82,人口は414ということである。一方1935年の記録では戸数30,人口179となっているので、戦後になってからかなり人口が増えているということになる。

中国地方・近畿地方では北部と南部では気候も風土もかなり異なる。山陰、山陽とはよく言ったもので、北部は年中曇りが多くて湿度が高く、冬は雪がよく降るし夏は雨が多くてしかも蒸し暑い。一方、瀬戸内海側の南部は雪も雨も少なく、全般に気温は高いが晴れた日が多くてカラッとしている。それが人々の気質にも影響するのか、山陰の人はあまりあちこちに動きたがらずに一定の場所に留まるのに対して、山陽は人の動きが多くて商業が活発だ。筆者は山陰の出身だが、中国山地を越えて南に行くと、同じ田舎でも雰囲気が全く異なるのを肌で感じる。実際、地元の人に聞いてみると、山陽では田舎の村でもそれなりに人の入れ替わりがあるという。

これは段ノ上隣保館。1965年10月に作られたという、国の同和事業は1969年に始まったので、それよりもかなり前に作られたことになる。あまり知られてはいないが、兵庫県では同和事業がかなり早い時期に始められていた。隣保館は全国隣保館連絡協議会(全隣協)に加盟しており、「部落差別解消推進法が施行されました」という全隣協のポスターが掲示されている。このように、隣保館は部落の施設であって、そのことを隠していない。

教育集会所が隣保館に併設されており、これも同じ時期(1966年3月)に作られたものだ。

しかし、さすがに老朽化のためか昨年の3月に閉鎖された旨が張り出されていた。

隣保館の周囲には建材業者と鉄工所がある。「部落」の記事ても製材所や鉄工所のことが出てくるので、当時からこの部落の産業であったようだ。建材業者の倉庫は部落のあちこちにある。

隣保館から北に少し歩いたところに、白山神社がある。関東では白山神社は部落と密接な関わりがあるが、どうもここの白山神社は違うようだ。というのも「部落」の記事では段ノ上の部落は南部だけであって、部落でないところが部落対策事業を受けるのは差別であり部落に対する侮蔑とまで言い切っている。白山神社の場所は、位置的には明らかに段ノ上北部にある。

年季の入った井戸があるが、これも場所は北部だ。

ただ、南部も北部も風景はあまり変わらない。兵庫県の典型的な田舎といったたたずまいである。公平を期すために部落でない周囲の村と比較してみたが、段ノ上については特に違和感は感じなかった。隣保館さえなければ、部落と言われないと分からないだろう。

部落内の神社は、さきほどの白山神社ではなくて、この荒神社ということになるだろう。

この公園とコンクリートの住宅には、何となく昭和40年代の同和事業の痕跡を感じることができる。

部落探訪(38)兵庫県たつの市新宮町仙正

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前回訪れた、段之上は南部だけが部落であるが、さらに南に歩くと仙正せんしょう部落がある。つまり、2つの部落が隣接している。

部落解放同盟の片岡明幸副委員長は、全国部落調査事件の裁判で提出した陳述書で、旧新宮町の同和地区出身であることを述べているが、地名は伏せられているもののその記述が詳細であり、なおかつ横浜地方裁判所相模原支部が、裁判の当事者は誰も触れていないにも関わらず、その地名が全国部落調査に掲載されていることを認めたため、奇しくもそれがこの仙正であることが明らかになった。

1935年の調査では世帯数は112、人口は601とある。当時の主要産業は農業と、かますむしろという藁製品だったようである。


しかし、片岡明幸副委員長の陳述書にある通り、現在は食肉業が顕著である。民間の碓井食肉センターがある他、写真を撮り忘れてしまったが、公営のたつの市新宮食肉センターがある。

陳述書には「関西では、食肉産業に関わるものはほとんど同和地区住民でしたので、一般的な社会認識として「肉屋は部落民」と理解されていました」とあるが、少なくともたつの市に関しては仙正だけが顕著で、隣接する段之上が建材業者が顕著だったのに比べると、明らかに2つの部落で主要な産業が違うことが見て分かる。

地元住民によれば、仙正で食肉産業が盛んになったのは戦後のことだそうだ。すると、1935年の記録は正しいと考えられる一方、文献を調べると仙正の食肉産業の歴史はかなり長い。

現在の新宮食肉センターは明治初期からの歴史があるようで、もとは「石井安右衛門」という人物による私設の屠畜場だったのが、大正2年(1913年)に当時の越部村が買収したことにより公営となった。しかし、公営になったとたんに利用料が大幅に値上げされたため、1917年に利用者が料金の返還を求めて神戸地裁姫路支部に訴え出た。この訴訟には仙正の住民7名が原告として名を連ねている(ちなみに「碓井」という姓が見られる)。これだけでは、仙正の住民のうち、どれだけが食肉業に関わっていたのかは分からないが、ともかく明治の頃から仙正に食肉産業があったのは間違いない。

こちらは、教育集会所と隣保館。1966年に設置された。

1964年の記録では、世帯数165とされている。2010年の国勢調査では世帯数148,人口452であるから、数字を見ればやや過疎が進んでいるようだ。ただ、行政区画の境界と部落の境界は一致しないようなので、実際の仙正の範囲は仙正という地名の範囲よりも広い可能性もある。

地区内には空き地と廃墟が目立つ。

しかし、仙正は立地としてはかなりよい場所にある。盆地の真ん中にあるので日当たりがよい。

水利も申し分なく、さらにたつの市の防災マップを見ると、洪水の危険性は比較的低く、むしろ周囲の一般集落の方が危険性が高いことが分かる。部落というと、条件の悪い場所にあると思われがちだが、仙正にはそれが当てはまらないのである。

住民に聞いても、部落のはっきりした由来は分からない。

ところで、片岡明幸副委員長が言っている、ホルモンの行商をしていたという肉屋は現在でも存在しており、それどころか、兵庫県内に複数の店舗を構える地元の名物店となっている。しかし、「寝た子を起こすな」という考えのようで「(その会社が)部落だとか、そういうことを書くなよ」と言われているので、書かないことにする。読者におかれては、推して知るべしである。

筆者も、寝た子を起こすなということであれば、それはそれでよいと思う。ただ、ある時は寝た子を起こせと言っておきながら、都合が悪くなると部落を隠せという、二枚舌が嫌いなだけだ。

今となっては、従業員はほとんどは部落外の人間ということだ。兵庫県内の他の同業者にしても「食肉産業に関わるものはほとんど同和地区住民」ということはないという。

ニコイチ住宅があるが、いずれもかなり古いものだ。やはり、新規入居者の募集はしておらず、そろそろ耐用年数を過ぎていると考えられる。

部落差別はあるにはあったが、昔の事と地元住民は語る。そして、若い人と年寄りの間で考え方の違いがあるようだ。同和事業が行われたころは、部落の児童生徒だけ特別な学習会があったので、学校で誰が部落の子供か分かるような状況があったという。今ではそのようなことはないが、それでも特に隣保館は部落の目印になっていることは否めない。

「隣保館は教育委員会の天下り先になっているから、あんな物はなくせばいい」

ある住民は語るが、老人を中心になくさないで欲しいという人もおり、今のままになっているという。

古びた倉庫のようなものがあると思ったら…

農機具の共同倉庫だった。銘板に「昭和47年度地方改善事業」と刻まれている。地方改善事業というのは、要は同和事業の1つである。

寝た子を起こさなくても、一度刻まれた歴史は消えないものである。


東京高裁第15民事部審尋終結

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8月22日、全国部落調査等を掲載したウェブサイトに対する削除命令の仮処分の件で、東京高裁で3回目の審尋がありました。この件で高裁での審尋はこれが最後になりました。

解放同盟側が提出した書面はこちらです。
債権者証拠説明書B-H29-8-23.pdf

示現舎側が提出した書面はこちらです。
準備書面B-H29-8-14.pdf
証拠説明書B-H29-8-14.pdf
証拠説明書B-H29-8-14-2.pdf
証拠説明書B-H29-8-22-3.pdf

前回の審尋で、裁判官は双方に未提出だった証拠説明書の提出を求めました。それに加えて、双方が主張を補充することになっていました。特に裁判官が気にしていたのは、地名と人格権の関係をどう考えるのかということです。もっと言えば、土地と人格を結びつける考え方自体が部落差別になってしまうのではないかということです。

示現舎側は、ある地名で示された地域に部落と部落でないところが混在していることが多くあり、歴史を調べるとほとんどの住民が賎民とは関係ないと考えられる部落があるということなどを主張しました。詳しくは、上記の書面をご覧ください。

しかし、解放同盟側は、特にその点は示現舎側に反論する必要はないと思っていたし、裁判官から主張を求められていることは「失念していた」ということで書面は提出しませんでした。

それでも、裁判官の求めで口頭での説明となったのですが、解放同盟側は、書籍の出版行為自体が人格権を侵害する、過去の地名だけでなく現在の地名も掲載されている、ということを主張しました。

それに対して示現舎側は、主だった部落は国立国会図書館のOPACで検索すれば出て来るし、しかも出てくる文献はほとんど行政資料や解放同盟によるもので、より記述が詳細で、嘘の記述もあると言っておきました。

これで今回の審尋は終わりで、合議により1ヶ月を目処に結果を出すということです。

部落探訪(39)長野県伊那市手良野口棚沢“後藤の衆”

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部落解放同盟長野県連合会が発行した「差別とのたたかい」には、昭和38年に長野県が政府の委託を受けて調査した部落の一覧が掲載されている。部落の地名のみならず俗称までも掲載されている。当時は部落の地名について、タブーではなかったことがうかがえる。

その中でも目を引くのが、伊那市にある、俗称「後藤の衆」という部落だ。実際に電話帳や住宅地図で調べると「後藤」姓が多く存在する。部落が地名だけでなく、ここまではっきりと姓で呼び分けられている例は珍しい。

「後藤の衆」は、伊那市民にとっては知る人ぞ知る存在のようだ。年寄りの間でその用語は最近まで使われており、後藤君という人がいれば「あの人は“後藤の衆”だから」「最近まで、職場で“後藤の衆”の人と一緒に働いてたよ」といった用法だったようである。

部落問題については南信地方では「寝た子を起こすな」という考えが強いものの、校区に部落がある学校では特別な授業をやっているという。一方、未だに結婚に際しては徹底的に身元調査されることがあり、「在日」だったりかなり警戒されることは間違いないそうだが、「後藤の衆」だったらどうなるのかはよく分からない。




伊那市の部落の詳細は伊那市史から知ることが出来る。伊那市での同和行政の歴史は以外に古く、昭和28年のローカル紙(伊那タイムス)に「部落民は貧しく、卑しく、気が荒く、村民から恐れられている、凍り餅や干し柿を盗んだり、森林盗伐もする。同族結婚が多い」という趣旨の記事が掲載される等の「差別事象」があったことから、昭和34年から市が同和対策事業を始めたということだ。

先述の「特別な授業」について調べてみると、伊那市立手良小学校では部落解放同盟棚沢支部長の後藤一男氏が、「被差別部落の当事者に学ぶ機会を取る」ために教員に対する講演を行っている。そして、今年は部落解放同盟棚沢支部に42万円が支出され、他にも棚沢集会所の管理費、社会教育、生活指導といった名目で年に300万円程度が同和行政に支出されている

南信地方でも、未だにこれだけの同和行政が行われていることは興味深いことだ。

これが、同和事業で作られた棚沢集会所。一部建て増しされた箇所があるが、伊那市史に掲載された写真そのままだ。

一見すると同和施設とは分からないが、中を覗くと「さべつをなくしあかるい未来」という手作りのポスターがある。この集会所には、伊那市から管理費として年間17万3000円が支出されている。

しかし、辺りを見渡せば普通の農村で、周囲の村と比べても何の違和感もない。違いと言えば、「後藤」という表札の家が多いくらいだ。

手良野口は萱野高原の麓の扇状地の傾斜地にある。伊那谷と南アルプスを見渡すことが出来る。

なぜ、「後藤」姓が多いのか、理由はよく分からない。伊那には「藤」のつく苗字は少ない。後藤とは藤原氏の後裔(子孫)という意味であり、もしかすると都から追放された貴族が起源なのかも知れない。

住民の1人である老人から話を聞くことができた。

「今はもう言う人はいないけど、ここは被差別部落だった。10年位前は12~3軒あったけど、今は7~8軒だけになってしまった」

このように、ここ最近のうちに、どんどん人が出ていってしまっているということである。これは部落に限らず、伊那市全体で過疎が進んでいる。伊那市の中心部はかろうじて活気を残しているが、それ以外は駅の近くであっても、廃墟となった商店が並んでいるような有様である。

「後藤と言えば藤原氏の子孫という意味だと思いますけど、実際に貴族と関係あるのですか?」

筆者がそう聞くと、

「さあ、親からもそういう話はないし、どういう由来か聞かされたことはないね。伊那では後藤という姓はあんまりないよ」

という答えだった。残念ながら後藤の由来は分からなかった。

部落にはいくつか墓地がある。伊那市史には住民の協力が得られれば墓地を1か所にまとめたいといったことが書かれているが、結局まとめられなかったようである。こちらの墓地には古くからの庚申塔があるが、後藤と他の姓の墓が混在している。

一方、こちらの墓地は後藤だけであった。墓石には屋号が書かれており、姓だけでは分からないので屋号で呼び分けていることが伺える。

“うららちゃん”炎上で話題となった「かながわ子どもの貧困対策会議」(前編)不透明な委員の選考基準

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昨年8月の貧困女子高生“うららちゃん”ことを覚えているだろうか。

2016年8月18日のNHKニュース7で放送された「貧困女子高生」の話題。アニメの専門学校に進学したい、PCを買えないのでキーボードだけを買ってもらったと訴えるその放送内容自体も突っ込みどころが多いものだった。さらに、放送直後に出演者の女子高生“うららちゃん”の周辺人物のSNS等が発掘され、実はアニメ等のオタク趣味には金をつぎ込んでいるのではないか、PCがないのにiPhoneは持っているのではないかと次々と疑惑が生まれ、「貧困というより金の使い方がおかしいだけなのではないか」「そもそもNHKの放送が捏造ではないか」という批判が噴出し“うららちゃん”を揶揄するコラ画像が作られるなど、ネットでは炎上状態になった。

なぜ、「貧困女子高生」がゴールデンタイムのニュース番組に出ることになったのか。この背景を負っていくと、「貧困」にからむメディアと行政の認識の“お粗末さ”が明らかになってきた。

きっかけは、2016年から神奈川県に設置された「かながわ子どもの貧困対策会議」である。これは、「子どもの貧困対策」を行うという安倍政権の意向を受けて、設置されたものである。つまり、「かながわ子どもの貧困対策会議」は神奈川県特有のものではなくて、国策のために全国の地方自治体で行われている政策の1つである。

それでも、各自治体はそれぞれの特色を出そうとし、神奈川県では会議の中に「子ども部会」を設け、高校生と大学生を委員として参加させた。件の“うららちゃん”はその委員の1人だったわけである。

実は、この会議については筆者は設置される前から注目しており、委員を一般公募していたので応募してみた。

神奈川県は2015年に「神奈川県子どもの貧困対策推進計画」という文書を出しているのだが、率直なところ筆者がそれを読んだところで、具体的に何を問題とし、何を目標としているのか分からなかった。そもそも「子どもの貧困」というのが何を意味するのかが分からない。

“うららちゃん”の一件で、彼女は多くの人が抱く「貧困」のイメージとはかけ離れているのではないかという批判が噴出した。それに対して、メディアや行政は「相対的貧困」という言葉を繰り返して“火消し”をしようとした。つまり、多くの人がイメージする「貧困」とは「絶対的貧困」だが、問題としているのはそうではなく、絶対的貧困と平均的な生活レベルの中間以下の「相対的貧困」だということなのだ。

確かに「神奈川県子どもの貧困対策推進計画」にも「相対的貧困」という用語が出てきて、その定義を「普通の生活水準の半分以下の所得水準での生活を余儀なくされている」ことだとしている。

しかし、筆者が感じたのは、「所得格差は世帯全体の問題であって、わざわざ“子どもの貧困”と言う意味があるのか」「子供の生活レベルは親など周辺環境にもよるので、単純に所得で判断できるものではないのではないのか」ということである。

本サイトで以前取り上げた福祉教育の名著、「きょうも机にあの子がいない」にはまさにそのことが書かれている。親が教育の価値を理解していなければ、いくら金があっても一時の享楽のために消えてしまう。そのような家庭環境にある子供は、所得が人並みにあっても豊かであるとは言えないはずだ。

「神奈川県子どもの貧困対策推進計画」にもそれを匂わせる記述がある。例えば2013年度の神奈川県内の中学校の長期欠席児童は8,775人で、そのうち経済的理由によるものは6人だけで、圧倒的に別の理由である。ただ、大学進学率については全体が61%なのに対し、生活保護世帯は44.9%、児童養護施設では21.6%と経済的理由が重荷になっていることを示唆するデータがある。しかし、生活保護世帯というのは言わば「絶対的貧困」であって「相対的貧困」についてのデータはない。

そこで、公募委員の応募にあたって、本当にお金の問題が子供の教育の障害になっているのか現状のデータでは分からないので、もっと個別の例も含めて調べるべきではないかということを小論文に書いたのだが、落選であった。

どのような選考基準になっているのか興味があったので、神奈川県に「個人情報開示請求」してみた。あまり知られてはいないが、最近は公立高校の試験結果も個人情報開示請求により開示してもらえる自治体が多い。皆様もやってみるとよいだろう。

そして、出てきたのが次の文書である。

神奈川県と言えば、本来は情報公開の先駆けとなった自治体であるはずが、このように同和絡みの行政文書のごとく黒塗りだらけであった。他の応募者の情報が黒塗りなのは分かるにしても、本人についてもほとんど黒塗りなのは「審査基準を公表することにより、次回公募の際の公平な運営に支障をきたすため」だという。

地方議会の議員は「選挙」というこの上なく公明正大な方法で選ばれ、行政職員にしても登用試験の採点基準が秘密ということはないだろう。その一方で、地方自治体で乱立され、政策を審議する審議会の委員がこのような不透明な方法で選ばれていることには、もっと問題意識を持つべきかもしれない。

さて、前述のとおり会議には「子ども部会」が設置された。子供の問題なのだから、「当事者」である子供に議論させようという考えなのだろう。

しかし、これはあまりにも安直な考えだ。どのような事柄でも「当事者」だから問題を一番理解しているとは限らない。殊に、貧困問題となれば財布を握っているのは親なのだから、「なぜ親が出てこないんだ?」という疑問を持って当然のはずなのだが、そのまま会議は進められた。

そして、結果は皆様の知るとおりである。“うららちゃん”炎上は起こるべくして起こったことかも知れない。
(次回に続く)

“うららちゃん”炎上で話題となった 「かながわ子どもの貧困対策会議」 (中編)戸田有紀NHK記者を直撃!

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さて、神奈川県において「貧困」と言えば、知る人ぞ知る場所がある。貧民街として知られる寿町ことぶきちょうだ。

寿町は横浜の中心街の南端にあるが、周辺には横浜市役所、横浜スタジアム、中華街があり、ビジネスマンや観光客で賑わう地域の一角だけが、異世界のようになっている。そのたたずまいは大阪のあいりん地区によく似ていて、ここにあるのは「相対的貧困」というよりは「絶対的貧困」だ。

神奈川県における貧困とは?

寿町でケースワーカーをしていたという人物はこう語る。

「神奈川県が何をやっているのかは把握してないです。(横浜市は政令指定都市なので)貧困対策はハローワーク以外は市の管轄ですからね」

寿町について言えば、若い住民は少なく、65歳以上の高齢者がほとんどだという。寿町には民間の保育所があるが、特に「子どもの貧困」と縁があるわけではなく、ただ特徴と言えば中華街が近くにあるので外国人の子供が非常に多いということだ。

「寿町には生活保護世帯が多いですが、たまに母子家庭があってもここにはとどまらないで、自立してどこかに引っ越していきますね。長い間いるのは高齢者や障害者です」

生活保護と言えば、筆者が以前から気になっていることがある。それは、メディアの報道され方だ。例えば2013年には朝日新聞に「月29万円の生活保護では、2人の子どもに劣等感を持たせずに育てるのは難しい」と訴える女性の記事が掲載されたが、衣服や娯楽、携帯電話に多額の支出をしていることからインターネットで批判がまきおこった。他にも生活保護世帯を取り上げたテレビのニュースで、毎月回転寿司屋に行っていたり、見切り品とはいえ焼肉用の肉を大量に買っていたりといった映像が流され、その度に批判がまきおこった。そして、NHKによる“うららちゃん”報道である。このようなものを見て、どう感じるのか。

「マスコミの人は高級取りだからよく分かっていないし、面白おかしいものだけを取り上げようとするからではないですか。確かに、生活保護者と知られたくないので、良い身なりをしようとする人はいます。ただ、月に1回回転寿司なんてそんなのないですよ。若い人で生活保護を受けるのは、ほとんどは病気、特に精神病を抱えている人です。精神病というのは医学の限界なのか、どうにもならないと感じることがありますね」

ということは、典型的な生活保護受給者は身寄りのない老人や病人であって、子供がいるような世帯はごく一部で早々と自立していくということになる。ただ、満足に働けないような老人・病人がメディアに登場して不平を訴えるという状況は考えづらい。また、「画的」にも面白くないだろう。メディアの貧困報道が偏ったものになる原因は、このようなことにありそうだ。

炎上騒動のあと、会議は非公開に

“うららちゃん”炎上の後、「かながわ子どもの貧困対策会議」は2016年9月30日と2017年3月21日に行われたが、いずれも非公開であった。また、会議の構成員であるはずのNHKの戸田有紀記者がいずれの会議にも参加していなかった。ただ、委員の1人を取材すると、NHKの報道がどのような経緯でされたのか何も聞かされていないという。ただ、あのようなことがあったので、かなり問題にはなったということだ。

筆者は、ウェブサイトでは公開されていない2回の会議の議事録を情報公開請求により入手した。“うららちゃん”炎上に関わる部分は多くが黒塗りにされているが、それでも、あの報道が会議でも問題となったことが伺える。NHKの報道は県としても思いもよらないものだったようで、県の事務方は次のように苦言を呈した。

今後の対策会議の活動については、会議の開催についての情報提供は継続して行いたい。ただし、次のような報道とならないようにマスコミに対して強く要望していくことを考えております。1つ目は、学生本人が特定されるような内容になること、2つ目は、会議の運営趣旨と異なる編集が想定されること、3つ目は、その他学生の安全が確保できないようなことが想定される内容になること。貧困についての報道は難しい部分があるのでこういった申し入れをしたいと考えております。

それを受けてか、公開された議事録では「子ども部会」の子供の発言に関わる部分も多くが黒塗りだ。ほとんど黒塗りで何が何やら分からない箇所も多いが、委員からもかなりの苦言が呈されたことは間違いないだろう。黒塗りだらけの会議録は、以下から見ることができる。

かながわ子どもの貧困対策会議会議録.pdf

ただ、本来は会議が公開が原則なので、このような状態になったのは、やはり“うららちゃん”炎上を受けての非常措置ということだ。つまり、NHKの報道が会議の運営にも影響してしまった。会議の本来のテーマである、子供の貧困対策に係る議論さえ一般の県民が目にすることが出来ないのであれば、会議の存在意義を大きく減じてしまったことになるだろう。

県は特に子供が特定されないように配慮している。そもそも、一般の視聴者から見て疑念を持たれるような内容でなければ特定されたところで問題はないはずなのだが、やはり何かあった場合を考えれば、とりあえず特定を防ぐという対応にならざるを得ないのだろう。

そもそも、政策を左右する会議に、名前を出せないような未成年者を参加させるという発想に問題があったように思う。子供の意見を聞くこと自体は必要なことかも知れないが、それは大人の誰かが全面的に責任を引き受けて行うべきであって、子供を前面に出して会議を行うことは、いささか安直過ぎる発想だった。

うららちゃんの担当は別の記者

「かながわ子どもの貧困対策会議」は今年度も開かれており、最初の会議が5月27日に行われた。さすがにいつまでも非公開にするのは無理ということで、傍聴可能ということであった。筆者は会議を傍聴するために神奈川県社会福祉会館を訪れた。

さすがに、会議では“うららちゃん”の話題こそ出なかったが、昨年度の反省を踏まえて様々なことが変わっていた。それらについては、次回詳しくレポートしようと思う。

筆者が驚いたのは、NHKの戸田有紀記者が出席していたことだ。戸田記者はインターネットでは“うららちゃん”報道の元凶と見られ、強烈な批判対象になっていた。会議の後、筆者は戸田記者に、結局“うららちゃん”報道は何だったのか聞いてみた。

「言い訳になってしまいますが…あのニュースの担当は別の記者で、私は会議の委員として出ているだけなんです」

筆者も含めてネットで多くの人が憶測してしまったように、戸田記者自身が会議に参加しつつあの報道をしたという訳ではないようだ。とすると、NHK内部でも行き違いがあったということなのだろうか。

「確かにあの件については、いろいろ反省すべき点があります」

戸田記者は落ち込んでいるとか、ピリピリした様子ではなかったが、とにかく報道自体に問題があったことは認識しているようである。

また、“うららちゃん”炎上については、行政やメディアやの中には、報道よりもむしろ「相対的貧困」を理解しない人々が悪いかのように言う意見がある。確かに「かながわ子どもの貧困対策会議」の議事録では、県の事務方が次のように説明している部分がある。

今後の会議の方向性についてですが、今回改めて絶対的貧困と相対的貧困に対する違いについて県民の理解がまだまだ不十分であるということが明らかになりました。相対的貧困を貧困として受け止められないという御意見もたくさんいただいております。今後も、子どもの貧困問題に対する正しい理解を深めるためにも、萎縮せず、継続して取組みを進めなければならないと感じております。

しかし、現場の本音はまた別のところにあるようで、委員からは「相対的貧困」という言葉について率直な意見が交わされる場面もあった。
(次回に続く)

部落探訪(40)大阪府大阪市北区中崎西“舟場”

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部落と言えば「差別」ということが強調される一方、差別されなくなった部落がメディアでクローズアップされることはあまりない。「解放」された部落というのはどのようなところなのか、本当に部落差別を解消したいと思うのであれば、そのような事例は参考になるものであるし、本来は多くの人が興味を持って当然のことである。

そのような「解放」された部落の1つがかつての舟場ふなば地区、現在の大阪市北区中崎西である。

大阪市同和事業促進協議会10年の歩みによれば、北区舟場町、堂本町、葉村町のそれぞれ一部が「舟場地区」とされていた。この3町の場所は、現在の大阪市北区中崎西とほぼ一致する。

今でこそここは都市に飲み込まれているが、昭和初期までは大阪駅周辺の東海道線の北側は田畑が広がり、舟場地区も、まさに「村」だった。しかし終戦直後に田畑だった場所にバラックや闇市が立ち並び、今のような都市に変わっていった。

1935年の全國部落調査の記録では、世帯数91、人口469。「10年の歩み」が刊行された1963年には世帯数85、人口405とされる。

しかし、「10年の歩み」では全ての世帯が「部落民」ではないと述べている。当時でも5割以上が一般民であり、「部落民」は85世帯のうち、40世帯に満たないだろうとしている。このことから分かるのは、全國部落調査をはじめとする統計資料が必ずしも「部落民」の数を表したものではないということである。

最寄り駅は地下鉄中崎町駅だが、大阪駅からも歩いていくことが出来る。大阪のファッションの中心地、梅田のヘップファイブの方に出て、環状線沿いに歩けばよい。

このコンビニは比較的最近できた。この風景からは部落とは分からない。

しかし、さらに進むと、蔦に覆われた古民家が現れた。廃墟かと思ったら。

店舗が営業している。オーガニック食材の専門店のようだ。実は中崎西には、このような古民家をそのまま利用した店が多数ある、

ビルの間に、古民家が立ち並んでいる。これらのほとんどは、住居ではなく商店になっている。

古民家猫カフェなるものも。このように、古民家、町家を全面に出した店が多い。「10年の歩み」によれば、舟場は靴・履物商による部落だったという。かつての部落の佇まいを残したまま、このような形で発展している部落は珍しいだろう。

細い路地にある民家も店舗に改装されている。家が売られて、かなりの住民が入れ替わっているものと考えられる。

こちらは、葉村温泉という、かつての町名を冠した銭湯。料金は大阪府の標準的な公衆浴場の料金だ。昔は舟場温泉という部落改善事業で設置された浴場もあったのだが、既になくなっている。

済美せいび」というのは、この辺りの町内会の名前らしい。「10年の歩み」にも「斉美会館」という建物があったことが書かれている。

細い路地があり、普通の住宅があるが、こんなところにも住居と商店が入り混じっている。

この三叉路がかつての「村」の中心で、戦前はこの辺りに集落があって、周辺に田畑が広がっていた。

通行人は若者、特に女性が多い。地区内にはECCの語学、コンピューター、美容師等の専門学校があり、ヘップファイブやエストの延長線上のような場所にある。そのためか、若い女性向けの雑貨店、古着屋、カフェが集まっている。

2011年ごろまで「舟場フォトサービス」という、唯一「舟場」の名を留める物件があったが、今はもうなくなっている。写真は2009年のグーグルストリートビューのもの。

それでも、ここが、かつて同和地区として改善事業の対象だったことは間違いない。しかし、1969年の国の同和対策事業の対象にはならず、今日に至っている。「10年の歩み」には次の記述がある。

寝た子を起こしたくはないが、部落として同和事業の対象として、改善事業の助成は受けたい、と云う考えが非常に強い。かっては、熱烈な解放運動員を出した地区ながらも、現在は40年に亘る運動と実践により解放されんとしているのだ。今頃、差別差別だと云って、ヒステカルになる解放同盟には反撥を感じる、同盟には這入らない。大阪市同和事業促進協議会には、大阪市の同和事業の対象になるから加入すると公言する状態である。

要は住民の興味は行政から金が出るかどうかであって、差別といったことには興味がなくなっていったことが伺える。金は貰いたいけど、解放同盟の運動には協力したくない。そうはいかなかったので、同和地区指定が外されたといったところだろう。

しかし、その選択は正しかっただろう。同和事業の対象となっていれば、大阪市内の他の部落のように、公営住宅が立ち並ぶ、殺風景な住宅地になっていただろう。いやいや、舟場は梅田の近くだから特別だと思うかも知れない。しかし、駅近くの本来は一等地の場所なのに、未だに「同和地区」であり続けている部落はある。同和事業は問題もあったが成果もあった、必要だった、と申し訳のように言われることがあるが、この言説も全ての部落に当てはまるものではない。

大都市の中心駅の近くにある部落という同じような条件にありながら、同和地区指定されて未だに隔絶感を残している京都の崇仁、同和地区指定を外され「解放」された大阪の舟場。両者の違いから学ぶべきことは多いだろう。

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