部落の中の部落と呼べる地域はどこか。筆者は大阪市の浪速部落を推薦したい。日本最大の同和地区は西成であり、そこに隣接する浪速は規模では西成に負けるが、西成は浪速から派生した部落に過ぎない。そもそも歴史的に西成は部落というよりはスラムに近い。しかし、浪速地区の場所は、かつて「穢多村」であったことがはっきりしている。
また、いわゆる「同和利権」の権化のような部落であり、その反動のためか、今まさに解体されつつある部落でもある。
同和地区には、駐車禁止でない通りが必ずある。この浪速地区もその例に漏れない。大阪人権博物館(リバティおおさか)の裏手がそうだったので、ここから探訪を始める。御存知の通り、リバティおおさかは大阪府・大阪市からの補助金を打ち切られ、崖っぷちの状態にある。敷地内に草が生い茂り、ゴミが転がっていることから財政的な厳しさが伺える。
このリバティおおさかのある場所には、昔は大阪市立栄小学校と浪速地区解放会館があった。学校と解放会館はそれぞれ移転し、その跡地をリバティおおさかが大阪市から無料で借り受け、博物館を運営してきたのであるが、現在、リバティおおさかは大阪市から賃料を支払うか立ち退くか、二者択一を迫られている。
街を歩くと、早速市営住宅と人権協会のスローガンが目に飛び込んでくる。大阪市浪速人権協会の掲示板はあちこちにあるが、今は何も掲示されていない。
そして、リバティおおさかの隣には工事中の空き地が。分譲住宅が建てられるらしい。空き地に立つ旗には「富士工務店」と書かれている。シリーズ「あなたの会社が同和に狙われる」でも紹介した、公有地・民有地を問わず同和地区の土地を買い漁っていることで知られている業者である。
この場所には、同和対策の作業場「大阪市立浪速同和地区協同作業場」が存在した。その後、大阪市が職員を“ヤミ派遣”していたことで問題となった社会福祉法人「スワンなにわ」の建物があった。スワンなにわというのは、要は解放同盟浪速支部の関係団体である。
しかし、ここは北津守駅、芦原橋駅、今宮駅のいずれからも近いため、すぐに完売となるだろう。予約するなら今のうちである。
太鼓を叩いていている人のブロンズ像がいくつかある。これはかなり金がかかっていると思われる。
バス停のベンチや案内標識も太鼓をモチーフとしている。そう、この部落の特産品は革製品である太鼓なのである。
この部落については、昭和50年3月に作成された同和地区精密調査報告書に詳細が書かれている。
浪速部落は、近世までは「渡辺村」と呼ばれた。皮革産業が顕著で、文化文政年間には年間10万枚の獣皮が取り扱われていたという。また、「摂津役人村」とも呼ばれ、刑吏の業務も行っていた。おそらく多くの人が持つ部落に対するイメージそのままの歴史であろう。最盛期の天保時代には人口は5,122人に達したという。
明治維新の頃の人口は4,000人程度だったと言われるが、その後よそから人が流入し、1917年には3,121戸14,246人、1975年には4,397戸12,034人、2000年には2,739戸5,936人とされている。浪速部落からさらに規模の大きな西成部落が派生し、同和対策事業が行われた時代にもとは部落でなかった「大国町」が同和地区指定され浪速部落に組み入れられたりした経緯もあり、人口の変遷にははっきりしない部分が多い。ただ、確実に言えるのは、明治以降にかなりの人口が流入・流出しており、大多数の住民は「穢多」とは無関係か、そもそも出自がはっきりしないことだ。これは浪速地区に限らず大阪市内の同和地区全般に言えることだが「被差別部落出身者」を自称する人のほとんどは、穢多の子孫という意味においては「エセ」と考えてよいだろう。
文化3年の地図には、そのままずばり「穢多村」と書かれており、これをグーグルが現在地と重ねて見られるようにしたことが部落解放同盟系の議員に国会で問題とされ、表記が消されてしまった。しかし、グーグルマップで「同和地区」で検索すると、浪速同和地区解放会館が出てくる。「穢多村」はアウトだが、「同和地区」ならよいということだろうか。
ここは太鼓屋又兵衛屋敷跡で、現在は玉姫公園になっている。部落の豪商であり、部落民は虐げられていたというのが偏った見方であることが分かる。又兵衛の子孫は今もどこかにいるのかも知れないが「被差別部落出身者」を自称して、差別されていると主張しているだろうか?
ここには市営第五住宅があった。ここにも民間の分譲住宅かマンションが建てられるのだろう。一部の空き地は工事中だった。浪速地区では老朽化し空き部屋だらけになっていた同和住宅の住民は集約され、古い住宅はこのように取り壊されて土地が民間に売り払われている。
もはや第五住宅は交差点名に名を留めているだけである。
この買物センターも同和対策で作られた。
買物センターの正式名称は「部落解放浪速地区消費生活協同組合」。シンボルは部落解放同盟の荊冠旗だった。シャッターに描かれた星のキャラクターも何となく解放同盟のシンボルを思わせる。今は閉鎖されており、隣の薬局とシャッターの前のたこ焼き屋が営業するのみだ。
今は「浪速生活協同組合」としてこちらに移転している。
ここはかつての「大阪市同和地区医療センター 芦原病院」の建物。同和対策で作られた病院で、ここにも解放同盟の荊冠旗が壁に掲げられていたのを知っている人は多いだろう。でたらめな経営で2005年に経営破綻。大阪市が融資した138億円が消えた。後に「浪速生野病院」となったが、その浪速生野病院も別の場所に移転し、老朽化した現在の建物はまもなく取り壊されるだろう。
芦原橋駅前には浪速同和地区解放会館、浪速第三温泉、浪速同和地区老人センター等があった。生まれても老いても、住むのも買うのも風呂に入るのも病気になっても、日常のあらゆることが「同和」「部落」に染まっていたのが浪速地区だった、
しかし、いずれの施設も取り壊されて民間に払い下げられ、まさにマンションやテナントビルの建設ラッシュである。
浪速部落の中心は芦原橋駅であると言える。件の「穢多村」があった場所も、この芦原橋駅の辺りでドンピシャリだ。
(次回に続く)