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部落探訪(1)東京都荒川区荒川8丁目

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部落、あるいは同和地区と呼ばれる地域には不思議な魅力がある。

公式には差別される地域であり、行政的にはその場所は半ば秘密とされること自体に興味をかき立てるものがあるが、実際にその地を訪れると実に多種多様な部落があることが分かる。

本シリーズは、そんな部落のなかでも選りすぐりの地を探訪し、レポートするものである。

都心にある代表的な部落

東京に部落はないと言われる。これは確かにその通りで、行政が「同和地区」として指定した地域は東京都内には存在しない。しかし、なぜか部落民の団体である「部落解放同盟東京都連合会」が存在し、東京の各地で、「ここが部落だ」と主張せんばかりに支部を設置しているのも事実である。

その中でも代表的なのが荒川区荒川8丁目である。

この部落については「荒川の部落史 まち・くらし・しごと」(「荒川部落史」調査会・編/現代企画室)が詳しい。

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それによれば、現在につながる荒川の部落が形成されたのは、明治初期に皮革工場が作られ、この地に屠場・油脂工場などの関連産業が集中することになった。そのため、屠殺業が盛んであった滋賀県をはじめとする各地の部落から住民が移り住んできたという。

従って、荒川8丁目は新しい部落である。

筆者は、この地を3年前にも訪れたことがあるという、部落探訪マニアと共にここに訪れた。

油脂、皮革、そして胞衣えな工場

我々は都電荒川区役所前駅から地区内に入った。漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に出てくる下町よりも、さらに下町といった雰囲気である。

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古い住宅があり、その奥はようやく人が通れるだけの路地になっている。

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路地を抜け、鉄板が敷かれた道を歩く。この辺りは産廃処理業者が多く、それを運ぶトラックが沈み込まないよう敷かれているのだろう。

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油脂工場があり、フォークリフトで動物の骨を運ぶ作業を行っていた。工場の周囲は、動物性のものを焼いているような、ケモノ臭い匂いがする。ホルモン焼が好きな人にとってはいい匂いかも知れないが、人によって好き嫌いが分かれる匂いだ。

荒川と言えば度々このような工場に「悪臭がひどい」と住民から苦情が入るようで、解放新聞東京版にはそのような苦情に対して「地域の成り立ち」を理解するよう住民に求める記事が載ったこともあった。

ただ、今回の探訪でそれらしい匂いがしたのはここだけである。

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地区の北側には東京都下水道局の下水処理場がある。部落探訪マニアによれば、実は3年前に探訪した時には、この工場の悪臭が最も酷く、有機酸のような匂いが漂っていたという。

しかし、今回の探訪では全く匂いを感じなかった。工場マニアでもある部落探訪マニアによれば、悪臭対策の設備が新設されたようで、おそらく写真の中央にある白いパイプがその設備の一部ではないかということだ。

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皮革工場があった。外壁の一部がはがれており、味わいのある建物である。なぜか、この地区の工場は古いままになっている建物が多い。補修しないのだろうか。

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そして、この地区でも特徴的なのは胞衣えな工場である。胞衣というのは胎盤など後産で出てくるもののことで、東京都では「胞衣及び産汚物取締条例」により、知事の許可を得た業者だけが処理を行うことができる。胞衣工場は産汚物の他、中絶された胎児などの処理も行う。

写真は大正胞衣社で、文字通り大正時代からある胞衣工場である。そのたたずまいも非常にレトロで、大正時代から変わっていないかのようだ。工場が動いていなかったのか、あるいはもともとそのようなものなのか、残念ながら外から稼働している様子はうかがえなかった。

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工場の近くには歩道橋があり、ここから地区を見渡すことができる。

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地区内は古い建物が多い一方で、空き地、取り壊し中・建設中の家、真新しい団地も目立つ。部落探訪マニアによれば、3年前と比べて、明らかに古い住宅が減ったという。部落のたたずまいも徐々に消えつつあるのだ。

支部と隣保館

部落に付き物なのが、部落解放同盟の支部と隣保館である。

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部落解放同盟荒川支部に行くと、「石川一雄かずおさんは無実です!」「狭山さやま事件の再審開始を」というビラが貼ってあった。同じようなものはどこの解放同盟支部でも見られるが、東京は東京高裁があるだけあって、特に力を入れているように感じる。

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さつき会館の掲示板。

さつき会館は「全国隣保館協議会」にも加入しておらず、正式に同和地区との指定もされていないことから、隣保館と言えるかどうかは微妙だが。

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中に入ると、ここが同和関係の施設であることを主張するような展示がされていた。

それにしても、なぜ「さつき会館」なのだろうか。部落探訪マニアによれば、狭山事件があったのが1963年5月1日であることから、5月という意味での「さつき」ではないかという。

あれこれ想像するより、聞いてみるのが早いということで、職員の方に名前の由来を聞いてみた。しかし、ここに赴任してあまり立っていないので、詳しくは分からないとのこと。他の職員にも聞いてくださったが、その場では分からず、調べて電話してくれるということになった。

「部落のフィールドワークに来たんです」

と職員に言うと、

「解放同盟荒川支部に電話しましょうか」

と提案して下さったが、

「解放同盟さんとは微妙な関係なので遠慮しておきます」

と辞退した。しかし、今考えればお言葉に甘えた方が良かったのかも知れない。

さて、後日さつき会館から電話がかかってきた。

さつき会館という名称は平成元年1月に地元の「集会施設運営委員会」で決められたという。しかし、当時の議事録が残っていないため、結局名称の由来は分からなかったという。

案外、狭山事件説が正しかったりするかも知れない。


失業手当の同和上乗せを申請してみた(前編)

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2002年に終了した国の同和対策事業。今では同和地区への特別施策は、国としては行っていない。

もっとも、国においても、「地方改善事業費」という名目で厚生労働省から各自治体に補助金が出ている。同和対策であるとは明示されていないが、ほとんどの隣保館は同和対策を目的として同和地区に設置され、現在でもその状況は変わっていないので、事実上の同和対策と言えるだろう。また、人権教育や人権擁護活動といった名目で、事実上同和団体の政治的活動を国が支援している実態もある。

しかし、露骨に「部落民だから」という理由で個人に利益供与する、いわゆる「個人給付的な」事業が全く残っていないかと言えば、そんなことはない。それが本稿が取り上げる、同和地区住民に対する雇用保険の上乗せ支給である。これを「同和上乗せ」と呼ぶことにしよう。

ご存知の通り、雇用保険に加入していれば、失業した場合に条件により、一定期間失業手当が支給される。もちろん、これは働く人であれば誰でも利用できる制度である。失業手当の支給期間は、雇用保険の加入期間、つまり働いていた期間によって違うが、通常は90日から150日である。

しかし、雇用保険法によれば「就職が困難なもの」に対しては、これが150日から最長で360日と大幅に延長される。「就職が困難なもの」とは誰を指すのか、これは雇用保険法施行規則に定められており、例えば障害者、犯罪を犯して刑期を終えた後社会復帰を目指している人などがこれに該当する。さらに、雇用保険法施行規則には「社会的事情により就職が著しく阻害されている者」という条項があり、これが非常に曖昧で、何をもってそう判断するかは現場に任されている。そして、実際のところ、これは同和関係者に対して適用されている。

雇用保険制度の運用全般を担当しているのは厚生労働省職業安定局の雇用保険課だが、同和上乗せについては同局の就労支援室が担当しているという。就労支援室に同和上乗せについて問い合わせると、「今もその制度はある」という答えが返ってきた。

実は、2009年度にこの同和上乗せが実施された件数を都道府県ごとにまとめた資料が筆者のもとにある。これは、当時同和団体と厚生労働省の交渉のために作られたものと考えられる。加えて、筆者は2014年度の資料も入手することができた。

資料によれば、2014年度の実績では、茨城県、埼玉県、福井県、長野県、三重県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県、島根県、広島県、徳島県、香川県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、熊本県、大分県、鹿児島県で、合計846件の同和上乗せが利用されたとされる。

2009年度は全国で1515件の実績があったので、5年間で半分近くに減っている。特に徳島県が230件から36件と激減し、2009年の時点で実績がわずか2件になっていた鳥取県では、ついに0件になった。このままいけば、事実上はいずれ消え去るのかも知れないが、雇用保険法施行規則が改正されない限りは、制度としては残っているということになる。

ちなみに、北海道ではアイヌがこの制度の対象になっていると言われているが、その件数については就労支援室では把握してないという。

なぜ同じ制度なのに各都道府県でこれほどまでに異なるのか。同和地区人口の違いを反映したものとすれば、例えば福岡県の件数が非常に多いのはある意味納得できる一方、福岡県と同様に同和地区人口が多いはずの大阪府での実績がわずか6件というのは不思議なことだ。

こうなってしまう理由は、やはり制度が適用される基準が曖昧だからだろう。就労支援室によれば、実際に適用されるかどうかは、最終的にはハローワークの担当者の判断ということになるという。

「連携」がキーワード?

しかし、現実には都道府県によっては、一定の基準を明文化したものがあるようだ。

それを裏付けるものとして、筆者は滋賀県の地域総合センターの内部文書を独自入手した。文書には明示されていないが、この資料の中に出てくる「就職困難者」という用語は、すなわち同和関係者のことである。文書に、同和行政を担当する「地域総合センター」「県人権センター」というキーワードが出てくることがそのことを示している。なぜか「取扱注意」とあるのは、行政はこの制度について大っぴらにしたくないということなのだろう。

少なくとも滋賀県では、本人が同和関係者であることを申し出ており、なおかつ35歳以上であるということが、同和上乗せを実施する基準となっていることが分かる。

最も重要と思われるキーワードが「連携」である。同和上乗せは「隣保館等」との連携により行われる、逆に言えば、滋賀県では「隣保館等」が関わらない限り同和上乗せが行われないのである。

滋賀県内の同和行政に詳しい元自治体職員はこう語る。

「就職困難者の認定について、「大卒」でいくらでも就労機会のある人が、簡単に制度を利用できたりと、実にその認定はゆるく、同和地区に住んでいれば誰でも雇用保険の上乗せを受けられたようなそんな印象があります」

また、「隣保館等」の「等」とは何を意味するのか?

「同和対策については、「属地属人」主義が原則ですので、就職困難者の認定についても、転入所帯などで「属人」を隣保館長が把握しきれない場合がでてきた場合には、同促や解同支部と連携していたのではないでしょうか。」(前出関係者)

「属地属人」とは、同和地区に住んでおり、なおかつ同和関係者であるという、2つの要件を満たす人を表す同和行政用語である。例えば、同和地区外から同和地区内に転入した人は「属地」の要件を満たすが、同和関係者ではないので「属人」ではない。逆に、同和関係者であっても同和地区から転出してしまえば、「属人」であっても「属地」の要件を満たさないことになる。

「同促」とは同和事業促進協議会のことで、同和事業の実施を円滑に進めるために、おおむね市町村ごとに結成された団体である。同促の運営は、解放同盟が主導していることもあるし、行政が主導していることもあり、実態は地域により異なる。なお、同和対策関係の特措法が終了してからは、各地の同促は名前から「同和」を外して、代わりに人権・福祉といった言葉を冠する名前に変わっていることが多い。

「解同支部」とは言うまでもなく、各地区ごとに結成された、部落解放同盟滋賀県連合会傘下の支部のことである。

また、同和上乗せの実態は市町村、さらには地区によってもかなり違いがあるようで、県内の隣保館関係者からは「ウチのところでは少なくともここ数年は実績がない。でも、あそこの市では特定の地区が申請のほとんどを占めているようだ」といった声も聞かれる。

さて、2015年の春のこと、滋賀県のとある同和地区に在住する増田ますだ秀夫ひでお(仮名)氏から次のようなメールがあった。

「半年で契約満了の仕事をしていました、雇用保険かけていますので失業保険申請します。同和地区住民・失業保険延長を申請したら受給期間ママ延長してくれますか?」

もちろん、「延長してくれる」が正解である。実は増田氏は数年前に筆者から聞いたことで同和上乗せの制度を知り、今になって活用するチャンスがやってきたというわけだ。

「ぜひ申請してみましょう、それから、一緒に行ってみたいのですが」

私はそう返信し、同和上乗せの実態を調査するべく、取材交渉を試みたところ、幸いにも密着取材を許された。後編では、その模様を、なるべく臨場感があるようにお伝えしようと思う。

ついに「部落地名総鑑」の原典が発見される

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1975年11月に発覚し、翌月12日の部落解放同盟の記者会見によりその存在が全国に発表された「人事極秘 特殊部落地名総鑑」。果たして部落地名総鑑とはどのような物だったのか。

筆者は長らくその謎を追求してきましたが、奇しくも部落地名総鑑事件から40年にあたる昨年12月、部落地名総鑑の原典である「全國部落調査」(1936年 財團法人中央融和事業協會作成)を発見し、電子化に成功しました。

そのデータは、同和地区研究サイト「同和地区Wiki」に掲載しています。

この件については近日「追跡! 部落地名総鑑」と題して特集しますので、ご期待ください。

失業手当の同和上乗せを申請してみた(後編)

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(前編はこちら)

隣保館職員と共にハローワークへ

さて、それから1ヶ月後、増田氏から「ハローワークの職員と話をした」との連絡があった。

「同和住民の失業保険延長はあると。隣保館担当に当事者が伝えて手続きしていくと。私の場合、90日が150日に延長とのこと」

やはり、申請はできるようだ。しかし、増田氏が言うには、この手続が少し面倒らしい。隣保館(地域総合センター)を通さなくてはならないのだ。

「(地域総合)センターには関わりたくないけど仕方ない。ハローワークはセンターが関係しないと許可しないと言います。県によって違いがあるのかな?」

増田氏の疑問への答えは、既に説明した通りである。それにしても「センターが関係しないと許可しない」というのは、ドンピシャリの言い回しではないか。例の資料をハローワークの職員が読んでおり、それ故に「連携」ということを意識していることは疑いない。後述するが、この後も、ハローワークの職員は一貫して例の資料に忠実に対応することになる。

さて、あまり気乗りしない増田氏であったが、背に腹は変えられず、隣保館に相談に行った。そして、増田氏から日程が決まったとの連絡があった。さらに、

「隣保館の職業協力員が同行したいと言っています」

とのことだった。

隣保館が紹介状の1枚でも書けばそれで済むのかと思ったら、そうでもないらしい。

2015年春の某日、筆者は滋賀県へと向かった。増田氏と落ち合うためである。増田氏に再会した私は、これまでの経緯を聞いた。

「最初、センターの職員が自分に同行するのを渋っとったんだけど、ハローワークにそのことを言ったら、やっぱり同行するって言ってきた。ハローワークからセンターに電話があって「それがあんたの仕事やろ」って言われたらしいで」

なるほど、そこまでやるから「連携」ということなのだろう。

また、増田氏によれば、昔はハローワークに“同和担当”の職員が常駐していたという。その頃なら、その場で申請できたのかも知れない。実際、県内の別の同和地区関係者によれば、「自分の時はハローワークで申告するだけでよかった」という。しかし、当時は同和上乗せの存在を増田氏は知らなかった。

しばし雑談したあと、草津市にある、草津公共職業安定所(ハローワーク草津)へと向かった。ハローワークに着くと、我々は早速2階の雇用保険の窓口に行った。そこで、隣保館職員が既に我々を待っていた。なお、今日同行する隣保館の職員には、筆者も同行することが既に増田氏から伝えられていた。また、職員は増田氏の地元の部落の方だということだ。

「手続きはどこまで済んでるの?」

隣保館職員は、開口一番にこう聞いた。それに対して、増田氏が答える。

「いま来たとこです」

統括とうかつの方に行って、受付してきて」

「ここでするんじゃないの?」

「いや、まず下で受付してきて」

同和上乗せとは言っても、例えば別室に通されたり、特別な窓口があったりするわけではなく、まずは一般の来所者と同じ様に受付を済ませなければいけないということらしい。

「そんなとこで、ちんたらやらんでも、ここ(2階の雇用保険の窓口)が担当やからここでやったらいいのに」

増田氏はそうぼやきつつも、1階の受付けへと向かう。受付けを済ませたあと、我々はしばらく1階の待合室で待った。その日は月曜日だったが、ハローワークは職を求める人で賑わっていた。

「ここは、近江八幡おうみはちまんとか甲賀こうかの方からも人が来はんね。なんでっていうと、求人が多いんよ。大津なんかよりも」

増田氏はそう話す。

地方が衰退する中でも、滋賀県は人口増加が続く稀有けうな地域である。その中でも、草津市は特に成長が著しい。そういったことが、このような場所からもうかがえるのだろう。

受付けをしてから10分ほどすると、今度はハローワークの職員が現れた。

「今日は3人で来はれたんですか? 状況をお伺いできますか」

「雇用保険の申請て2階じゃないんですか? 2階に言ったらここに行けって言われたんですよ」

「ええ、雇用保険は2階ですよ」

「最初から2階に行ったらだめなんですか? ここで全部できないでしょ」

「まあ、いろいろありますわ」

何がいろいろあるのか分からないが、万事この調子である。

「同和の延長がなかったら、こんなところ来ないで一般の人と同じ様に申請したらいい話でしょ。延長がなかったら自ら名乗り出ることもないですよ。何がどうなるのか知りませんけど、早く済ませたいんです」

増田氏の訴えに対し、職員の答えはこうだ。

「申し出するのはあくまで本人さんで、必ず申し出してくださいっていうもんでもないんで…」

現在の同和上乗せの位置づけがおおよそ想像できる一言である。ハローワークとしては、積極的に勧めておらず、知っている人だけ自分から申告してくださいといったところだろう。まさに裏メニューといった状態だ。公平性を考えると、本来は好ましくないことだのだろうが。

その話は程々にして、職員は離職日や雇用保険に入っていた期間などの状況を増田氏に聞いた後、一旦立ち去った。

「本当に回りくどい人やな」

増田氏がぼやく。

しばらくして、件の職員が再び戻ってきた。

「就職困難者の申し出をされるということでよろしいですね?」

「はい」

「今日隣保館の方が来られてますが、今後も連携して活動されるということでよろしいですね?」

「私は分かりませんけど」

確かに、そんなことを増田氏に聞いてもしょうがないだろう。とっさに横に居た隣保館職員がフォローすると、ハローワーク職員がしつこいように「就職困難者に該当しますね」と隣保館職員に念を押していた。もちろん、ここで言う「就職困難者」とは、同和関係者のことである。ハローワークでは一貫して就職困難者という用語が使われ、さすがに同和関係者という直球な用語は一度も使われなかった。

ハローワーク職員によれば、「就職困難者」の場合は1つ余計に書類が必要になるという。それは、隣保館で相談を行った旨を記入した書類である。書類には本人の名前、生年月日、最終学歴、職歴を記入し、最後に隣保館職員が相談年月日を記入する。失業手当の給付対象に該当することが確定すれば、就職困難者としての給付期間が設定される。

ここで職員が強調したのは、まずは失業手当の給付対象に該当することの確認が必要で、確認できなければ就職困難者の申し出は意味が無いということだ。

ともかく、書類を記入した後、我々はしばらく2階で受付の順番が来るまで待機することになった。

その間、ハローワーク職員が隣保館職員を呼び出し、我々から離れて廊下の隅で2人でずっと何か話していた。遠くなので声は聞こえなかったが、「連携」についての打ち合わせをしていたのだろう。

「結局、隣保館抜きでそんな申請通らんよと言いたいんね、あちらは。(自分は)「属人」なんやからそんなん関係ないはずなのにね。障害者の人が来て、障害者就労の財団法人の職員と同行することがあるんよ。それに近い状態ですわ」

増田氏はそう語った。

ショック! 救いようのない展開

さらに増田氏は、同和対策の特措法が残っていた当時の話もしてくれた。

「昔はね、なおさら「同和地区の方」とか「母子家庭の方」とか(ハローワークに)掲げてあったんやんか。で、同和担当の嘱託職員がここにおったんですよ、専属で。失業保険でも何でもそこに行けば相談できたんですよ、以前はね。その時は待たなくていいから便利でしたよ。電話しておいたら、すぐしてくれはるねん。その時、自分も何度か失業保険申請したけど、そんな話(同和上乗せ)は全然言わんかったね。そんな制度があるなら、教えてくれたらいいのにね」

さて、再び待つこと15分、ようやく増田氏の順番が回ってきた。しかし、そこで職員に言われたのは予想外の一言だった。

「雇用期間とかが書いた契約書って、今日お持ちではないですよね?」

「まあ、指示がないからね」

「ちょっと確認させてもらっていいですか…」

実は、ここに至るまで筆者はあまり聞いていなかったのだが、増田氏が派遣会社で働いていた期間は6ヶ月である。通常、失業手当は1年以上働いて雇用保険料を納めていなければ支給されない。しかし、2008年から2009年にかけての「年越し派遣村」の影響もあり、2009年3月からは雇用保険料を納付した期間が6ヶ月であっても、失業手当が支給されるように雇用保険法が改正された。しかし、この納付期間が6ヶ月でも給付ということについては条件がついていた。

職員がさらに説明した。

「なんで契約書をお持ちかどうか聞いたのかといいますと、離職票の通りであれば、期間が足りてないという扱いになるんですよ。あらかじめこの日に次の更新はしませんよと契約書に書いてあったとありまして」

2009年の雇用保険法の改正は、いわゆる「派遣切り」対策である。そのため、納付期間が6ヶ月でも給付されるのは、正社員の場合は会社都合での退職、派遣社員の場合は派遣切りにあった場合に限られる。では、派遣切りとは具体的に何を指すのかというと、派遣社員としての雇用期間が満了後も契約を更新できる場合に、雇用者側の都合で契約を更新しなかった場合である。

しかし、増田氏の場合は、働いた期間が6ヶ月に達する前に、あらかじめ契約を更新しない旨を雇用者が通告し、増田氏も了承していた。そのため、「6ヶ月働いた後に派遣切りにあった」とは見なされないことになってしまうのだ。

もちろん、増田氏はそれでは納得出来ない。今までハローワーク、隣保館とたらい回しにされた不満もあって、かれこれ1時間以上押し問答することになった。しかし、職員は少なくともこの書類では受け付けられないと繰り返すのみであった。

また、増田氏によれば契約を打ち切られた際に、派遣会社からは失業手当を受けられるとの説明を受けたという。それが事実だとすれば、派遣会社が失業手当の受給条件を間違って認識していたということだろう。

増田氏のような「就職困難者」の場合は、特別に救済されることはないのかというと、そのようなことはない。考えてみれば、もっと解放同盟が力を持っていた時代なら、法改正時にドサクサに紛れてそのような条項を入れるだけの知恵もあったかもしれないが、2009年当時にそれは無理だろう。一般の加入者であろうと、就職困難者であろうと、必要な納付期間についての条件は同じである。法改正はあくまで派遣切り対策のためで、就職困難者は関係のないことだった。

「とにかく、この書類に書いてあることが事実であれば、申請は受けれません。もし、この書類書いていることが誤りであれば、派遣会社に行って訂正してもらってきてくださいとしか言えません」

それがハローワーク職員の答えだった。

「明日、会社に一緒に行こ」

と、隣保館職員が増田氏にうながした。増田氏も「分かりました」と言わざるを得なかった。

そして、ハローワーク職員は、後で書類の不備を訂正するという前提で、とりあえず失業手当の申請を行うことを提案した。こうしておけば、一応は本日付けで申請したことになるのだそうだ。

さて、その後のことであるが、結論から言えば増田氏は失業手当を受けられなかった。

増田氏が契約した派遣会社は、ほぼ季節ごとに契約を行っているのだが、増田氏の場合、最後の契約書に次回から契約を更新しない旨が書かれていた。さすがに契約書を後で書き換えることはできない。

労働紛争解決支援センターや弁護士も相談したが、やはり駄目だったという。増田氏は、「失業手当を受けられる」と説明した会社に対してもさらなる抗議をするつもりだという。

何とも後味の悪い結果で取材を終えた。

アイヌ利権とは何か 第一回

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※写真と本文は関係ありません。

「権利」という言葉の漢字をひっくり返すと「利権」という言葉になる。両方の言葉の意味は共通しているが、前者に比べて後者の意味はより限定的である。すなわち利権とは、他者を排除して特定の人や集団だけに与えられた権利のことである。

北海道において、アイヌに対する特別な優遇があることは、誰も否定することができない事実である。確かに、アイヌ利権と呼ぶべきものは存在しているのだ。

例えば、北海道の予算から「就職奨励事業費補助金」が公益社団法人北海道アイヌ協会に支出されている。これは「アイヌ住民が就職のために必要とする経費(就職支度資金)、及び自動車等運転免許を取得するために必要とした経費(自動車等運転免許取得資金)に対して」支給されるものである。

就職支度資金は、中学校を卒業して就職したアイヌ住民に対して2万3100円までの金額が支給されることになっている。しかし、今の時代中学校で学歴を終える人はほとんどいないためか、2014年度は支給実績がない。

一方、自動車等運転免許取得資金は各種自動車運転免許、船舶免許、クレーン運転免許の取得費用に対して、5万円までが補助される。この事業については、2014年度は21件、合計105万円が支給された。

他にもアイヌに限定した特別の制度として、高校生への補助(アイヌ子弟高等学校等進学奨励費補助)、大学進学者向けの奨学金(アイヌ子弟大学等修学資金等貸付制度)がある。これも北海道が行う事業だが、費用のうち半分は文部科学省から国費が支出されている。

この制度の対象は、もちろんアイヌの子弟であって、「経済的な理由により進学後修学が困難な者」であるとされる。ということは、単にアイヌであるというだけでは対象とならず、所得制限がある。その基準額は家庭環境によって変わるが、例えば親2人子1人のサラリーマン家庭で公立高校に自宅から通学している場合、他に特別な事情がなければ、おおむね年収600万円である。家族が増えれば、この基準額はもっと高くなる。

北海道の平均世帯年収は2014年で592万円なので、基準額はそれを軽く上回っている。平均世帯年収は極端に高収入な世帯が押し上げている実態があるので、ほとんどの家庭の収入は平均以下である。そのため、所得制限は「経済的な理由により進学後修学が困難」な人に支給するためというより、比較的高所得の家庭を除外するためといった意味合いが強い。

2014年度の実績では418人がアイヌ子弟高等学校等進学奨励費補助の支給対象とされた。支給総額は8477万9934円であり、うち4238万9965円が国費であった。1人あたり平均で年間約20万円が支給された計算である。

一般向けの同様の制度としては、文科省が都道府県を通して行っている高校生等奨学給付金制度があるが、これは生活保護受給世帯か、低所得のため住民税が非課税とされた世帯が対象であって、支給額は1人あたり年間3万2300円(生活保護世帯)または3万7400円(住民税非課税世帯)である。しかも、この制度は、公立高校に通う生徒だけが対象だ。対して、アイヌの制度は私立高校も対象となっている。

2つの制度を比較すると、アイヌを対象とした制度が支給条件においても金額においても、いかに破格であるか分かるだろう。

また、アイヌ子弟大学等修学資金等貸付制度では同じ年度に100人が対象となり、合計8262万6821円、1人あたり平均で約80万円が無利子で貸与されている。対象の所得制限はアイヌ子弟高等学校等進学奨励費補助と同じである。

この制度は、「貸し付け」ということになってはいるが、かつては実質的にはほとんど給付金であった。2009年に小野寺おのでらまさる道議会議員(当時)がこの問題を道議会で追求し、道側は1982年から2007年まで貸し付けられた合計24億9171万円のうち、21億1612万円もが減免されていたと答弁している。例えば、1人世帯なら年収が585万円以下であれば返済が免除されるというように、返済の減免基準が非常にゆるかったためだ。

このためか、2011年度の貸し付けからは減免基準が徐々に厳しくなり、現在では年収300万円以下の状態が5年間継続した場合となっている。しかし、日本学生支援機構の奨学金が、単なる生活困窮では原則として免除されないのに比べれば、破格の条件である。

これ以外に、市町においては住宅の新築、改築にあたっての貸付金制度が存在している。貸し付け条件はどこの市町でもほぼ同じで、現在のところ新築の場合上限は760万円、年利は2%である。

この事業は最盛期である1980年代には年に100件以上の貸し付け実績があったが、2014年にはわずか3件にとどまっている。ご承知の通り、昨今は低金利政策が長らく続いており、住宅ローンの金利も過去最低水準である。よって、そこそこの信用力があれば2%よりも低い金利で、なおかつ固定金利で民間の銀行から借りることができるので、行政の貸付金制度の存在意義はかなり薄れている。

個人給付的な事業以外では、ケタ違いの税金が投じられている事業がある。例えば「アイヌ農林漁業対策事業」だ。これは、アイヌ農林漁家の戸数が原則として3戸以上ある地区を対象として市町村が実施する事業に対し、3分の2の予算を国が負担するものである。農林水産省か所管しており2011からは「特定地域経営支援対策事業」という名称に変わり、沖縄に対する農業対策とセットになった。2015年には2億2800万円の予算が組まれている。

しかし、この事業については「アイヌ」と名がつくものの、その中身は例えば東日本大震災で被災した漁業施設の復旧等にも使われており、アイヌ利権というよりは、アイヌを名目に地域対策の予算を国から得ているようにも見える。

また、産業対策として「アイヌ中小企業振興対策事業」というものがある。これは「ふるさと名物応援事業」という名目で、中小企業庁からアイヌ民工芸品の振興のために特定の企業・団体支出されるものである。2015年の予算は716万5000円であり、支出対象はアイヌ協会1団体だけである。

この事業については、実質的にはアイヌ協会を対象とするために続けられているようで、アイヌ利権というよりは「アイヌ協会利権」と言うのが適当かも知れない。

さて、これらの制度が何をきっかけに、いつから始められたのか。実は、その歴史をひもといていくと、必ず「同和問題」にぶつかるのである。

本州で行われた同和事業を知っていると、北海道で行われているアイヌ向けの事業が同和事業に非常によく似ていくことに気づく。似ているどころか丸っきり同じものもある。それは当然のことで、アイヌ事業と同和事業は歴史的にも政治的にも互いに影響しあってきた。

同和事業と共通するアイヌ対策

国家事業として行われた同和事業は、「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」(いわゆる「同和地区」)を対象として1969年から2002年まで行われた。

対象となる同和地区は、古文書や口伝を手がかりに、かつての穢多えた村など、差別されている地域を地方自治体が認定し、それを国(当時の総理府の同和対策室、後の地域改善対策室)に報告する形で把握された。施策の対象者の認定方法は地域や時期によってまちまちであるが、多くの場合は、事実上同和地区関係者により組織された民間団体である部落解放同盟によって認定されていた。

同和事業のうち、個人給付的なものとしては、就職支度金、運転免許の取得費用の補助、進学奨励金、奨学金といった制度があり、これは北海道で現在アイヌに対して行われている施策とよく似ている。

これらの施策は、国による同和対策事業が終わった現在でも、市町村によっては一部が残っている。しかし、「逆差別である」「時代遅れである」「格差が解消した」「別の制度で代替できる」といった理由で、これらの制度を廃止する自治体が年々増えているのが現状である。少なくとも、都府県単位ではもはや残っていない。

例えば、鳥取県米子市では2009年度まで同和地区の高校進学者には月8000円の進学奨励金が支給されていたが、2010年度から国の高校無償化制度が始まったことを受けて廃止した。

しかし、事実上の国費による事業が残っている分野もある。例えば、厚生労働省が管轄する隣保館事業である。同和対策で設置された福祉施設である隣保館の運営費用の3分の1について、未だに国が予算を支出し続けている。

この事業は同和対策事業が始まる以前の、1960年から「地方改善事業」という名称で続けられてきたものである。つまり、名目上は同和対策事業とは関係なく行われてきたため、残ることになったのだろう。

実はこの事業、本州以南では事実上の同和対策だが、1961年に地方改善事業費に「ウタリ対策福祉費」が盛り込まれて以降、北海道ではアイヌ対策として行われている。北海道の各地にある「生活館」という名称の施設は、厚生労働省では隣保館として位置づけられていて、同和対策の隣保館と同じく現在でも国費が投じられている。

(次回に続く)

追跡! 部落地名総鑑(前編)

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「本を焼く者は、やがて人間も焼く」とは、19世紀のドイツの詩人、ハイネの言葉である。

さて、時は1975年12月8日、人権週間まっただ中の日本では、ある本が焼かれている真っ最中であった。その本とは、「部落地名総鑑」。東京都中野区の空き地で灯油をかけながら本を焼いたのは、この本の作者である坪田つぼた義嗣よしつぐ氏である。

それから2年後の1977年9月13日には、東京都品川区の大井清掃工場で、法務省職員らの手によって部落地名総鑑が焼かれた。その場に立ち会っていたのは松井まつい久吉ひさきち部落解放同盟執行委員長、松尾まつお正信まさのぶ全日本同和会会長らである。

戦後の日本において、これほどまでにおおっぴらに「焚書ふんしょ」された出版物は部落地名総鑑以外にないのではないだろうか。

部落地名総鑑が日本の政治、経済界に大きな影響を及ぼし、それが未だに尾を引いていることは、連載記事「あなたの会社が同和に狙われる」で既に取り上げた。そこで、別の観点から改めてこの部落地名総鑑について検証しようと思う。

回りくどい言い方をしても仕方ないので、直球に言ってしまおう。筆者の興味は部落地名総鑑の内容である。出来れば、現物を入手したい。そういうことである。

最も「やばい図書」

言うまでもなく、部落地名総鑑とは被差別部落の地名一覧を掲載した図書である。それだけでなく、部落の戸数、主な職業といった情報も掲載されていたとされる。

被差別部落の一覧を掲載した図書はいくつか出回っており、その表題も様々だが、総称して俗に部落地名総鑑と呼ばれる。おそらく、最初に見つかり、なおかつ最も完成度が高かった本が「特殊部落地名総鑑」と銘打って売られたことから、部落地名総鑑がこの種の書籍の代名詞となったのだろう。

昭和の終わりごろまでは同様の図書を古書店で時々見かけることができたと言うが、今ではまず見つけることはできない。わいせつ物等の非合法な出版物を除けば、「やばい図書」の代表格となっていることから、書店も売りたがらないのではないだろうか。

しかし、それであきらめるわけにはいかない。

なぜ、そこまで部落地名総鑑が必要なのかというと、れっきとした理由がある。

実は筆者のもとには「部落地名総鑑はないか」というメールや電話が何度かあった。理由は様々で、単に興味があるという場合もあれば、不動産屋なので仕事に使いたいという場合もある。もちろん、筆者は部落地名総鑑など持っていないので、その度に部落解放同盟の連絡先を紹介して、そこに聞いてくださいと言うしかなかった。

同様の悩みを抱えるのは筆者だけではないようだ。

日本図書館協会の機関誌「図書館雑誌」の2012年4月号に八尾市立山本図書館に勤務する喜多きた由美子ゆみこ氏のこんなコラムが載った。図書館のカウンターで部落地名総鑑の所蔵調査および閲覧、相互貸借などを依頼されたので「人権侵害を目的とした資料の調査には一切応じない」として断ったところ、「図書館では私の問い合わせに一切答えてくれない。私は不当な人権侵害を受けた」と八尾警察署に訴えられたというのである。

また、図書館問題研究会の機関誌「みんなの図書館」2013年1月号で、沖縄国際大学の山口真也教授が、図書館と部落地名資料について解説している。山口氏によれば「「部落地名総ママ」と同じ機能を持つ資料は、「図書館の自由」という理念の中で提供制限が認められる、唯一の具体的な事例である」と指摘している。

図書館について知る人にしてみれば「部落地名総鑑」がいかに特殊な存在か分かる。人権侵害と言うのであれば、何か事件があれば関係者の顔写真やプライバシーを暴くためにメディア関係者が図書館で卒業文集などを漁ることは知る人ぞ知ることであるし、図書館がそういう目的での資料提供を拒むことはない。

結局のところ、図書館や書店が部落地名総鑑の扱いに困る理由は、不用意に扱うと、部落解放団体から激烈な抗議を受けるか、そこまで至る前に過敏に反応した関係当局から圧力を受けてしまうからだ。その一方で、八尾市の例のように逆のパターンで抗議されてしまうこともある。

部落地名総鑑の収集と提供を制限することは「図書館の自由」に反しないのか、どのように扱えば非難を免れることができるのか。これについては前述の山口氏も答えを出せていない。

しかし、筆者にはシンプルかつ強力な解決案がある。

簡単だ。部落地名総鑑を無料で広く公開すればよいのだ。公然のものになってしまえば、少なくとも部落地名総鑑については、そもそも収集と提供を行う必要はなくなる。部落地名総鑑の存在がありふれたものになれば、古地図や古文書の類でいちいち騒ぐ人もいなくなるだろう。

部落地名総鑑探索のアプローチ

さて、冒頭に登場した坪田氏こそ「特殊部落地名総鑑」の作者である。この「坪田バージョン」の部落地名総鑑が現存し、なおかつそれを入手できる可能性は完全にゼロではないとは思うが、前述のとおり徹底した回収と焚書が行われたので、ほぼ絶望的だろう。

そこで、筆者はこれまで様々なアプローチを考えた。1つ目は坪田バージョンにこだわらず現存する部落地名総鑑を探すこと、2つ目はいっそのこと自分で部落地名総鑑を作ってしまえばどうかということだ。

「終わっていない「部落地名総鑑」事件」(1995年 解放出版社)によれば、当時出回っていた部落地名総鑑名前は次のようなものだ。

  • 人事極秘 特殊部落地名総鑑
  • 全国特殊部落リスト
  • 部落リスト(大阪版)
  • 日本の部落
  • 特別調査報告書
  • ㊕分布地名
  • 同和地区地名総覧(全国版)

以上のような名前の資料が図書館や古書店にないか、図書館や古書店の蔵書の横断検索を活用して徹底的に探したのだが、やはりと言うべきか、見つけることができなかった。

もちろん、全ての図書館や古書店の蔵書が検索可能とは限らないので、公民館などの図書室、古書店街をしらみつぶしに探せば、見つけられる可能性もなくはない。しかし、それには相当な労力と、運も必要だ。

そこで、第2のアプローチである。

部落地名総鑑を手に入れることは無理でも、都道府県、市区町村単位の部落一覧を手に入れるのであれば比較的敷居は低い。行政や運動団体が出版したものが図書館に普通に置かれていることがあるし、隣保館等の同和対策施設の場所から明らかになることもある。

時には実地調査も行いつつ、それらを地道に収集すれば部落地名総鑑を作ることができるのではないか。情報化が進行した現在では、ひょっとすると昔より高精度な物が作れるかも知れない。

そのために筆者が開設したサイトが、同和地区Wikiである。

これは悪いアイデアではなかった。様々な人が編集に参加し、高知県や長野県など、図書館に置いてあったという県単位の同和地区一覧を提供してくれる人もいた。2015年2月には徳島市の同和施設一覧について、徳島地方法務局から削除要請を受けたが、もちろん断固拒否である。

情報化と言えば、グーグル・ストリートビューが部落解放同盟の一部から非難されたことが記憶に新しい。確かに、実際にグーグル・ストリートビューは同和地区特定に有効なツールである。いわゆる「部落っぽいたたずまい」が分かるだけでなく、バス停、自治会館、消防ホース格納箱などに書かれた文字からその地域の小字や俗称が分かるし、「身元調査お断り」「解放文化祭開催」「石川一雄さんの再審無罪を勝ち取ろう」といった張り紙や掲示物を確認することもできる。一部の人が激烈な反応を示すのは無理も無いことかも知れない。

ともかく、根気よく続ければ、そこそこの物が出来そうである。

しかし、この方法の難点は集められる情報のばらつきが多いことだ。

単に地名を集めるのは難しくはないが、戸数や職業までは全ての文献に記載されているわけではない。また、調査した年にもばらつきがある。このまま部落地名総鑑を完成させたとしても、様々な種類のデータがまぜこぜになった、いびつな物になってしまうだろう。

そこで、第3のアプローチを並行して行った。

(後編に続く)

アイヌ利権とは何か 第二回

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アイヌの側から旧土人保護法存続を求める声が

しかし、今現在も残るアイヌ優遇策の起源をさらにたどっていくと、同和対策とは異なるものに行き着く。アイヌ優遇策のそもそもの起源は、1899年に制定された北海道旧土人保護法である。

ご存知の通り、旧土人保護法は1997年にアイヌ文化振興法が制定されるまで残されていた。今の時代の感覚で、法律の名前から受ける印象だけで判断してしまえば「こんなアイヌを差別する法律をずっとそのままにしていたのは国会の怠慢たいまんだ!」と思ってしまうかも知れない。

しかし、法律の名称に「保護法」とある通り、旧土人保護法はアイヌを優遇する法律である。15年以内に開墾かいこんしない場合は没収されるなど様々な条件付きではあったが、農業を営むアイヌに15,000坪までの土地(給与地)を無償で与えるという内容であったことは、比較的よく知られている。

この土地の広さを今の単位に換算すると約5ヘクタール。ちょうど東京ドーム1個分程度の広さである。大変な広さに感じられるかも知れないが、これは北海道の農地の大きさとしては標準的なものである(現在の農地法でも、北海道に限っては農家の最低経営面積は他の都府県の4倍の、2ヘクタールと定められている)。

また、法律の対象は正確にはアイヌではなく、「旧土人」であることにも注意が必要である。これは北海道の開拓前からの土着民という意味であり、実際に当時北海道に土着していたのはアイヌに限らない。しかし、後に旧土人とアイヌはイコールで語られるようになる。本稿でも便宜上、アイヌと言っておこう。

土地の給付だけでなく、法律が出来た当初は、貧困者であるアイヌには農具、医療、教育などのための給付を行うことが定められていた。1937年には、不良住宅の改良、アイヌを保護するための施設を設置する条文が追加された。「アイヌを保護するための施設」というのは、要は現在の生活館のことである。今の「アイヌ利権」に通じるのは、これらの規定である。

しかし、1946年には貧困者に対する給付に関する条文のほとんどが削除されている。これは、同年に生活保護法が施行されて、アイヌ限らず貧困者に対しては特別の措置が取られるようになったためだ。つまり、「一般対策化」されたわけである。

ただし、この時は教育に関する給付に関する条文だけは削除されず、1968年になってようやく生活保護法によって手当できるようになったという理由で削除されている。また、同時に旧土人保護法から不良住宅の改良の条文が削除された。これは1960年に住宅地区改良法が制定され、不良住宅の改良も一般対策として行われるようになったことが関係しているだろう。

結果として、生活館に関する条文が法律の廃止まで生き続けることになった。

旧土人保護法の廃止が本格的に提案されたのは、1970年のことである。同年6月5日に北海道下の市長による全道市長総会で旧土人保護法廃止の提案が当時の五十嵐いがらし広三こうぞう旭川市長から出され、全会一致で採択された。

しかし、当のアイヌの側から廃止を望まないとする意見が多くあり、その理由も様々で、議論は紆余曲折した。名前からしていかにも時代遅れな法律が、これほど長い間廃止されなかったのはこのためである。

同年6月14日の北海タイムズによれば、当時札幌テレビ放送で旧土人保護法の存廃をめぐる討論番組が収録され、様々な意見が出された。

行政側の立場からすると、旧土人保護法廃止でほぼ意見が一致していた。

その理由の1つは、やはり差別的であるということだ。例えば、土地の扱いに関する制限がアイヌに対する差別であり、憲法違反と考えられること。優遇策についても逆差別であり、生活保護制度等で平等に措置できるので、アイヌだけに特別の施策は不要であることが主張された。

また、法律の条文の多くが事実上死文化しているという批判もあった。例えば、戦後はアイヌに対する土地の給付が行われなかったため、もはや給与地の没収はない。給与地の利用に関する様々な制限も、1937年の改正で事実上取り払われている。

ただし、土地の譲渡に関してだけ、北海道庁長官(1947年に北海道庁が廃止されて以降は北海道知事)の許可が必要という条文だけが残った。しかし、大正時代には既に、名義を変えずに給与地を事実上他人に譲渡してしまう行為が横行していたと言われており、戦後のGHQ占領下時代には農地改革によって全道の給与地の約4分の1が強制的に買い上げられた。

一方、主にアイヌの側から出た、旧土人保護法廃止を望まない理由は、アイヌのための生活館や低家賃住宅が多数設置されており、こうした優遇策を放棄する必要はないということだ。

1970年6月17日、北海道ウタリ協会(現在の北海道アイヌ協会)は旧土人保護法廃止反対を決議した。その後、ウタリ協会は、アイヌ政策に関する新法(ウタリ協会新法)の制定を求めて動き出し、新法制定までは旧土人保護法をそのままにするべきだと主張するようになる。

当然、その理由は旧土人保護法廃止によって現状の優遇策の根拠がなくなることを危惧したからだ。また、後には「差別的な法律を政府が制定した証として、新法制定までは土人という名前を残す」といった趣旨の主張もされた。

同和対策とアイヌ対策が連動

1970年と言えば、前年の1969年7月10日に同和対策事業特別措置法が成立している。この、同和に絡む動きが、アイヌにも影響したことは間違いない。

ウタリ協会の機関誌「先駆者の集い」(第40号、1985年8月31日)に「ウタリ協会新法(案)策定決議に至るまでの経過」がまとめられている。

それによれば、1969年に自民党の秋田大助衆議院議員がウタリ協会の野村義一ぎいち理事長と面談し、同和対策事業特別措置法について、附則ふそくにアイヌにも準用すると入れたいので、緊急に意見を聞きたいとの申し入れがあったとされる。

具体的な日付は書かれていないが、同年に同法が制定された7月10日よりも前であり、しかも条文に押し込めるギリギリの時期だったことは間違いないだろう。秋田大助氏と言えば、自民党の中でも特に同法の制定のために尽力した人物である。

それを受けてウタリ協会は当時の町村金五きんご北海道知事に意見を聞いたところ、「同和問題とアイヌ問題は本質的に異なる」のだから、同法の附則にアイヌを加えるべきではないと回答があった。その代わり、町村知事は北海道としてアイヌへの対策を行うことを検討すると確約した。そして、ウタリ協会は秋田議員に対して町村知事の意見通りの回答をした。

これはウタリ協会が同和対策と同様の特別措置を拒否したわけではなく、あくまで別の形での特別措置を求める予兆であり、自民党側にもそのための用意があることを示唆しさしていた。

1971年、ウタリ協会は「ウタリ福祉基金」を創設する構想を打ち出した。これは、ウタリ協会、北海道、国が3分の1ずつ負担して3億円の基金を設立するものである。同年5月26日にウタリ協会の野村理事長らが、このことを直接佐藤栄作首相に陳情している。

このウタリ福祉基金は1982年頃まで存在し、有志により基金が集められていたことが「先駆者の集い」に書かれているが、その後、その話題は出てこなくなった。アイヌ協会によれば、結局ウタリ福祉基金は目的を達成できないまま、全額を当時のウタリ協会に寄付するという形で精算されたという。

1974年から「北海道ウタリ福祉対策」という7ヵ年計画が道により作成され、アイヌ対策のための特別な予算が組まれた。例えば、現在でも続いている住宅資金の貸し付け、進学奨励金、農林漁業対策などの事業はこの頃から始まっている。そして、1976年からは、多くの事業に国からも予算が支出されるようになった。現在も国から支出されているアイヌ対策予算は、全てこの頃から続けられているものである。

北海道ウタリ福祉対策はその後第4次計画までが行われ、国の同和対策事業の終了に合わせたかのように、2002年に一度終わった形になっている。しかし、「アイヌの人たちの生活向上に関する推進方策」と名前を変えて継続され、現在も続いている状況だ。

しかし、これでもアイヌ対策の規模は同和対策に比べればはるかに小さなものだった。例えば1977年に全国市長会がまとめた資料によると、1976年度の同和対策予算額は全国で2116億7000万円にものぼる。その後も、この規模の予算が毎年計上され続けた。

それに比べて、アイヌ対策の予算は、最盛期の1981年でさえ13億5643万円で、他の年も大差ない。同和対策に比べれば桁違いどころか2桁も違う。かたや全国で行われている事業、かたや北海道だけでの事業ということを考えたとしても、あまりにも差が大きい。

ただ、この予算規模であっても同和対策で起こったのと同様の問題が北海道でも起こっていた。特に深刻だったのが、住宅の新改築に対する貸付金が返還されないという問題である。当初は全く無担保で貸し付けていたのだが、さすがに1980年頃からは、住宅に対して抵当権を設定するようになった。

同和対策においても、「これは過去の差別に対する代償だ」といった考えから意図的に貸付金を踏み倒す行為が横行したのだが、さすがに問題視されて抵当権を設定するようになったのがこの時期である。そこで、アイヌ対策も同和対策にならったものと考えられる。

1985年のデータでは、多くの支部では9割以上が償還されていたのだが、弟子屈町てしかがちょう標茶町しべちゃちょう、千歳市では6~7割程度と極端に低く、釧路市に至ってはわずか3割と異常な状態だった。この時期、「先駆者の集い」は毎年のように貸付金を返すように呼びかけを行っている。

1982年には、今まで給付金だった大学入学者への修学資金が貸し付けとなった。これも、同和対策において給付が貸し付けに変更されたことにならったものである。しかし、この件について協会は「このことについては、文部省・大蔵省に何回もお願いしましたが、結果的には北海道のウタリに関しては返済しなくてもよいという腹がまえがあるようです」(「先駆者の集い」(38号、1983年7月15日))と説明している。実際、貸付金となった後もほとんど給付金のような状態だったことは前述の通りである。

さて、1981年には、このような同和対策との格差について、ウタリ協会の会員から不満が出始めたという。その理由として、同和対策は法律が制定されている一方で、ウタリ対策には法律がないためであり、新法の制定の必要性が認識されるようになった。

一方、「先駆者の集い」40号の中では、ウタリ協会の総会で次のようなやりとりがあったことが記されている。

苫小牧とまこまい支部から「国民的批判をうけている同和の運動団体があると聞いております、しかし、それらの団体の要請をうけて対応している状況の中、協会の運動自体が誤解をうけたり、支障をきたしたりする問題も出てくると思います」という意見が出された。

それに対して、野村理事長は「同和関係団体の対応については当初から色々な状況があるということも存じておりましたし特定のイデオロギーや団体にママするという考えも持っておりません」と答えている。

また、同和問題とは違い、アイヌについては民族存続の問題なので、同和対策のように時限立法にすることは間違いだということも指摘された。

ここに出てくる「国民的批判をうけている同和の運動団体」というのは、要は解放同盟のことである。この議論が行われた翌年の1986年に、政府が設置していた審議会である地域改善対策協議会が内閣総理大臣に対して、「行政の主体性の欠如である。現在、国及び地方公共団体は、民間運動団体の威圧的な態度に押し切られて、不適切な行政運営を行うという傾向が一部にみられる」「何が差別かということを民間運動団体が主観的な立場から、恣意的に判断し、抗議行動の可能性をほのめかしつつ、さ細なことにも抗議することは、同和問題の言論について国民に警戒心を植え付け、この問題に対する意見の表明を抑制してしまっている」といった内容を含んだ意見具申を行った。特定の団体を名指ししたものではないが、明らかに解放同盟を念頭に置いたものであったので、これに対して解放同盟が激しく反発した。当時はそのような時代である。

1988年の「先駆者の集い」48号でも、「ウタリ協会が、部落解放同盟の事業などに積極的に入っていくことは良いことなのかな? アイヌ新法の制定に影響しないかな?」という会員の声が紹介されている。

そういった会員の心配をよそに、アイヌ協会は解放同盟との関係を深めていく。

(次回に続く)

追跡! 部落地名総鑑(後編)

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(前編からの続き)

部落地名総鑑の原典を追う

部落地名総鑑を手に入れる第3のアプローチは、「原典を見つける」ということである。

部落地名総鑑は全国のほぼ全ての部落の地名を網羅していたと言われる。しかも、地名だけでなく戸数や職業までもが書かれていたという。

そこまでの情報を集めるには、実地調査で全国の部落の場所を1つ1つ訪ねて、聞き込みすることが必要で、住民基本台帳の調査も必要だろう。昔は戸籍や住民基本台帳を簡単に閲覧出来たとは言え、そのような調査を民間人がおおっぴらにやれば非常に目立つはずだ。

そのため、政府、自治体、あるいは部落解放同盟を主とする部落解放運動団体の調査資料からまとめられたのではないかと当初から言われていた。ということは、何とかしてその資料を手にして、坪田氏がやったのと同じプロセスを踏めば、部落地名総鑑と同じものを手にすることが出来るのではないかというわけである。

1977年に部落解放同盟中央本部が作成した「「部落地名総鑑」「部落リスト」差別事件糾弾闘争の中間総括と今後の方向」には、部落地名総鑑の作成過程と内容が詳しく書かれている。

作成者の坪田氏は興信所を経営しており、「71年秋、「某所」より資料を入手し、図書館で新しい地名を探し原稿を作成した」とある。そして、坪田氏は1975年4月ごろから、部落地名総鑑を売り込むチラシを配布し、販売を行ったがあまり売れなかったという。

1975年11月17に部落解放同盟大阪府連で匿名の投書があり発覚。その後の経過は読者もご承知の通りである。

部落地名総鑑の大きさはB5版で601ページ。赤い表紙に「人事極秘」と書かれているだけである。「特殊部落地名総鑑」という表題は坪田氏が作成した売り込みチラシにかかれていたもので、部落地名総鑑自体には発行所、発行年月日も書かれていない。

売り込みチラシでは「5600部落」と銘打たれている一方、実際の掲載数は5360箇所だったようである。

「某所」というのは「終わっていない「部落地名総鑑」事件」(1995年 解放出版社)によれば、「労政問題研究所」のことで、坪田氏はここから部落地名一覧(おそらく「全国特殊部落リスト」のことと考えられる)を入手した。「図書館で新しい地名を探し原稿を作成した」というのは、手に入れた一覧の地名が古いものであったから、現在の地名を調べたということである。

労政問題研究所の部落地名一覧のもとになったのは何かというと、当時紳士録などを販売していた出版社である「朝日通信社」の社内にあったものを書き写したという。しかし、さらにその先について明言した文献は見つからない。

部落解放同盟は、元になった資料は1936年に中央融和事業協会が作成した「全国部落実態調査報告書」であると見ていた。政府も「もともとのネタは政府関係筋から出たものとしか思われない」との見解を示していたが、不思議なことに大元の資料は不明であるというのが、最終的な政府の見解である。

筆者は「全国部落実態調査報告書」という文献を探したが、同じ名前の資料は残念ながら見つからなかった。

一方、1975年12月18日の衆議員議事録を見ると、社会党の和田貞夫さだお議員(当時)が次のように語っている。

私、この「融和事業年鑑」の十五年版を見たわけなんですが、ここの資料と今度の地名総鑑の一部を比較しましたら、合っているところも合っていないところもある。ただ、私つけ加えておきますが、今度の地名総鑑を見てみますと、部落の世帯数の欄を見てみましたら、末尾は必ずゼロか五ですわ。部落によりましたら三百三十三世帯あるところもある。そういうようなものは、三百二十三世帯というように書かないで、三百三十五世帯とかあるいは三百二十世帯とか。だから、巧みに資料を入手してきて、その資料をどこから入手したということを包み隠すために、末尾を必ずゼロか五にしているのですよ。

もちろん筆者はこの「「融和事業年鑑」の十五年版」というのも探してみたが、融和事業年鑑の昭和十五年版には府県の統計があるのみで、個別の部落の一覧といったものはなかった。

また、1977年11月15日の衆議員議事録では社会党の矢山ややま有作ゆうさく議員(当時)が次のように語った。

政府がこれまで極秘扱いにしてきたと言われております「同和地区精密調査報告書」が、最近相次いで都内の古本屋に出回って、高値で販売をされております。東京都の同和対策部や部落解放同盟大阪府連によって現在五冊が回収されたと言われておるのでありますが、この経緯について総理府の長官からの詳細な説明を聞きたいと存じます。

当然、「同和地区精密調査報告書」も血眼になって探したところ、青山学院大学の図書館にあることが分かり、筆者は現物を目にしたのだが、残念ながらこれは全国の同和地区を網羅したものではなく、9箇所の同和地区を選んで「精密に調査」した報告書に過ぎなかった。

しかし、改めて融和事業年鑑の昭和十五年版を見ると、全国の部落数が5371と報告されていて、部落地名総鑑の掲載部落数に非常に近い。資料名は分からないが、ともかくこの時期に行われた調査資料が部落地名総鑑の元になったと見て間違いなさそうだ。

ついに原典にたどり着く

筆者は長きにわたり、同時期の調査資料を探し歩いた。しかし、前述のとおり見つかったのはごく一部の調査資料だったり、単なる統計表に過ぎないものだったりした。ただ、その課程で特定の府県の同和地区一覧表が見つかることもあり、同和地区Wikiのパズルのピースは埋まっていった。

ちなみに、解放同盟や政府関係者の間で話題になっている、同和地区Wiki内のインターネット版部落地名総鑑というページがある。この地名一覧は、筆者と同じアイデアを持った人が、部落解放運動、同和対策、部落史の資料を地道に調べて、気になった地名を書き留めたものである。よって、必ずしも同和地区ではなく、参考程度に考えた方が良い。

さて、2015年末、ふとした偶然から「某所」で1936年に作成された融和事業に関する調査資料を発見した。どうせまた統計表か何かだろうと、あまり期待しないで資料を開いてみると、驚いたことに、内容は全国の部落を網羅した表であった。

資料の正式な名称は「昭和十一年三月刊 全國部落調査[秘]財團ざいだん法人中央融和事業協會」。昔の官公庁で見かける薄い紙に謄写版とうしゃばんで印刷されたもので、本文が336ページ。巻頭と巻末に書かれた序文や統計表等は活字だが、部落一覧はおせじにも上手いとは言えない字で手書きした原版を印刷したものである。

巻頭に掲載された統計表によれば、掲載部落数は5367部落で、ちゃんと世帯数、人口、職業、さらに生活程度まで1部落ごとに書かれている。一目見ただけで、これが部落地名総鑑の原典に間違いないと確信させるものだった。

さらに、これが間違いないことを裏付けるのは、部落解放同盟であった小林健治けんじ氏のブログにあるこの記述だ。

「そもそも「部落地名総鑑」は、戦前の内務省傘下の中央融和事業協会が作成した手書きの「全国部落調査」など、行政対策の必要性から作られたものや、戦後、部落問題の担当部局を持っていた厚生省が、全国の被差別部落の実態を調査して作成したものなどが原典になっている」

手書きであることなど、筆者が発見した資料と一致する。

また、この資料が手書きであることが、発見が難しかった理由と考えられる。活字であればOCRにより文字として認識されるため、グーグルブックスによる内容の検索が可能になる。実際、適当な部落名でグーグルブックスで検索してヒットする書籍から、さらに多くの部落の名前が内容に含まれる書籍を探し、特定の府県の部落一覧表が掲載された書籍を見つけたこともある。

全国部落調査は約80年前の資料なのでとっくに著作権の保護期限を過ぎており、グーグルブックスに取り込まれる可能性は十分にあったはずなのだが、手書きのためOCRによる認識ができないこと、また紙質が特殊だったので取り込まれなかったのではないかと考えられる。

もう1つの裏付けとなる資料は、「同和地区地名総覧 全国版」という本で、これは部落地名総鑑に便乗して、同時期に丸写しされて売られたのではないかと思われるものだ。

この本は、目次と序文だけを、堺市にある舳松へのまつ人権歴史館で見ることが出来るのだが、掲載都府県が全国部落調査と一致している。特に、戦後の同和対策事業の対象地域がないはずの東京都、富山県、秋田県、福島県、石川県が目次に入っているということは、「同和地区地名総覧 全国版」が少なくとも戦後の同和対策に関する資料をもとにしたものではないことを示している。

「同和地区地名総覧 全国版」の目次

「同和地区地名総覧 全国版」の目次

全国部落調査から何が分かるか?

これは筆者の想像であるが、部落地名総鑑の原典は「分からなかった」のではなく、「分からないことにした」のではないかと思う。この全国部落調査は様々な部落問題の研究書で引用されており、政府や部落解放同盟の関係者であれば容易に見ることができたはずである。分からないということは、あり得ないことだ。

おそらく、部落地名総鑑のもとになったのが戦前の融和事業の資料だったということが明るみにされると、同様の資料を集めてまた部落地名総鑑を作成する者が現れるか、さもなければ融和事業の資料自体がやり玉に挙げられて、各地の図書館で廃棄あるいは利用制限をせざるを得なくなったり、古書店等からの発掘も難しくなったりすることから、部落史研究や同和対策事業の拡大に支障が出ることを恐れたのではないだろうか。また、当時は「同和対策事業が行われるまでは、部落は放置され続けた」という建前があり、戦前の融和事業について詳しく語ることは半ばタブーだったこともあるだろう。

しかし、これが部落研究において非常に重要な資料であることは間違いない。

戦後、同和事業の対象とならず、被差別部落であることも忘れ去られたような部落も多数掲載されているため、そのような部落と今でも「差別がある」と主張される部落との違いは何なのか、実際に現地に行って研究することが出来る。

また、主な職業を見ると、部落の職業も地域によって様々であり、部落の産業と言えば食肉や皮革ということが、単なる偏見であることが分かる。

さらに、現在地を調べて国勢調査の小地域別集計と組み合わせれば、「同和地区実態調査」に近いこともできるだろう。

しかし、そのためには、全国部落調査の電子化と現在地の特定が望まれるところである。

既に電子化は終えており、目下同和地区Wikiでは、現在地の特定作業が進行中である。誰でも編集可能なので、我こそはという読者は、是非作業に参加して頂きたい。

同和地区の情報を政府や一部の運動団体が独占する状況を崩すことで、新たな世界が拓けるはずだ。


アイヌ利権とは何か 最終回

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IMADRに「被差別集団」が結束

1997年に人権フォーラム21が設立され、当時の笹村ささむら二朗じろうウタリ協会理事長が副代表となった。人権フォーラム21とは、反差別国際運動(IMADRイマダ)日本委員会委員長である武者小路むしゃこうじ公秀きんひで氏が設立した団体である。IMADRとは、解放同盟が1988年に設立した国際NGOである

なぜ、アイヌ協会が解放同盟との関係を深めたのか? これは、1969年の秋田議員の話からもうかがえるように、アイヌの側から同和に寄ってきたのではなく、同和の側がアイヌに寄ってきたと見るべきだ。

特に顕著になったのは、1974年で、この年、部落解放同盟大阪府連合会に「政治共闘局」が作られ、様々な団体との共闘が試みられた。その課程で「被差別統一戦線」なるものが提唱された。これは、解放同盟が彼らの基準で「被差別者」とされる集団が結集し、「被差別共闘」を行おうというものである。

そのターゲットとなったのは、在日朝鮮人、障害者、沖縄県民、アイヌ、女性、原爆被爆者である。

月刊部落解放(1974年12月)で、後に部落解放同盟中央本部書記長となる小森龍邦たつくに氏が、アイヌとの共闘について報告している。小森氏が訪問したのは平取びらとり町で、そこで当時ウタリ協会副理事長だった貝澤かいざわただし氏と面談した。報告にはこうある。

「ウタリ協会の「ウタリ」という言葉は、どんな意味かと私が尋ねた。アイヌ語で、仲間、同志、親戚という意味をもっていると説明を加えながら、アイヌ協会といってもよいのだが、刺激が強いというので、少し柔く表現しているのだと答えた。そこには、アイヌ出身をかくして一日もはやく、大和民族に和合し、倭人わじん化しようとするアイヌ人の今日の姿がある。大部分のアイヌ人が「寝た子を起こすな」意識に侵されている」

「寝た子を起こすな」という言葉は、同和問題に関わるキーワードの1つだ。解放同盟は「そっとしておけば差別はなくなる」という態度をこの言葉を用いて徹底的に批判し、自ら被差別部落であることを明らかにすることを要求した。これが「寝た子を起こせ」ということである。同和対策の優遇措置を受けるためには、当然、どこが被差別部落であるかを特定しなければいけないのだから、重要なことだった。

さらに、小森氏はアイヌ子弟への奨学金のあり方にも疑問を呈している。当時、アイヌの高校生に進学奨励金が支給されていたが、これは親と行政のみが知っており、本人と学校には秘密にするという方法を取っていた。一方、同和対策の奨学金は大っぴらに行われており、「解放奨学金」と呼ばれ受給者による大会まで行われていた。

そんな小森氏が1つだけウタリ協会を評価していたのは、誰がアイヌかという認定をウタリ協会が行っていたことである。これは解放同盟が言うところの「窓口一本化」の実現であり、「部落民」の認定を解放同盟だけが行う体制を目指していた解放同盟にとっては理想的な状態であった。

さて、その後、解放同盟広島県連がアイヌ青年を研究集会に招待するという形で、解放同盟とウタリ協会の交流が続けられた。

そうして広島に招待されたアイヌの中でも、最も強く感化されたと思われるのが、後にウタリ協会理事となる成田なりた得平とくへい(1990年に秋辺あきべに改姓)氏である。成田氏は1974年7月27日に解放同盟に招かれて「アイヌ解放と被差別人民との連帯」と題して、広島県立体育館で講演を行った。そこで、「今後、部落解放運動がほんとうに人間解放に向っていく時、我々は大いに道庁することにやぶさかではございません。いつでも手を取り合って連帯していくことを大いに希望いたします」と語っている。

それから10年以上後のことであるが、ウタリ協会は「寝た子を起こす」試みを実践し始める。1988年の定期総会で、「北海道アイヌ協会」と名称を変更することが提案されたのである。そこで、会員へのアンケートが実施されたのだが、これが惨憺さんたんたる結果であった。

500世帯にアンケート葉書を送付したところ、回答率がわずか18%であり、しかもアイヌ協会と名称変更すべきと答えたのは9世帯だけであった。結局、この問題についてほとんどの会員は無関心、関心があったとしても現状維持が圧倒的多数だったのである。当然、名称変更は断念された。

その後、何度が名称変更が提案されたのだが、その度に否決されるという有様だった。

この名称変更は非常に根の深い問題だった。戦後まもない1946年に「アイヌ協会」という名前でアイヌの団体が結成されているのだが、最初のアイヌ協会はやがて立ち消えになっていまった。そして、1960年に再建されたが、その時に名称を「ウタリ協会」とした。

これは貝澤正氏の話にもあった通り、多くのアイヌが、アイヌ語で人(特に男)を意味する「アイヌ」という言葉に強い抵抗を持っていたためである。それは最も直接的にアイヌを指す言葉であり、それゆえに侮蔑ぶべつ的な意味で使われることもあったし、何よりもアイヌがアイヌであるということに誇りを持っていなかった。

そこで、同胞を意味する「ウタリ」という言葉を使うことになった。これは当時徹底されていたようで、1965年には学校においてもアイヌという言葉を避けてウタリを使うように、協会が要請していたという。

結局名称変更が実現したのは、2008年6月6日に国会で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択された翌年の2009年4月1日のことである。

さて、話が前後してしまうが、ご承知のとおり1997年5月14日にアイヌ文化振興法が制定され、旧土人保護法は廃止された。しかし、実際に制定されたアイヌ文化振興法には、ウタリ協会が求めたものとは大きな差があった。

1984年にウタリ協会がアイヌ新法案を決議したのだが、それが大きく分けて6つのことを要求していた。1に差別の撤廃、2にアイヌ民族議席の確保、3にアイヌの教育・文化の振興、4に農地の確保・漁業権の付与など産業振興と労働対策、5に民族自立化基金の創設、6に審議機関の設立である。このうち、アイヌ文化振興法に明示的に盛り込まれたのは3,6の要求である。

1は自明のことであり、なおかつ旧土人保護法の廃止により名実ともに行政上の施策からは差別は撤廃された。しかし、2は後述する憲法上の問題があり、4,6も現実的ではなかった。

結局、同和対策のように、法律上の根拠を作って産業振興のために国から莫大な予算を得る試みは実現できなかったと言える。

はっきり言ってしまえば、大多数のアイヌは現在のアイヌ文化振興法に書かれていることに関心はないだろう。そういった意味では、1974年にウタリ福祉対策が始まって以降、多くのアイヌが新たに得た「利権」はなく、利権は年々縮小するのみである。一方、ウタリ協会からアイヌ協会への名称変更などアイヌ文化振興法制定後の動きは、多くのアイヌがほとんど関心を持たない中で、トップダウンで行われたもので、関心のある一部のアイヌだけが利権を得たと言える。

アイヌ利権は全国に広がるか?

2008年のアイヌ先住民族決議以降、国では「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が開かれ、2009年7月29日に同懇談会から報告書が発表された。しかし、個人給付的な事業について、新たな事業が具体的に提案されることはなかった。

その後、「アイヌ政策推進会議」が開かれ、2012年6月1日に「「北海道外アイヌの生活実態調査」を踏まえた全国的見地からの施策の展開について」と題する報告書が発表されている。そこで提言されているのは、前出のアイヌ子弟大学等修学資金等貸付制度を北海道外のアイヌにも適用することを検討するというものだ。

その結果、2014年から日本学生支援機構(JASSOジャッソ)の無利子奨学金(第一種奨学金)の支給要件は、大学生の場合高校での成績が3.5以上必要なところ、アイヌの場合は3.0に緩和された。

JASSOによれば、制度開始後、アイヌ協会の推薦を受けて申請した学生はいたが、そのケースでは学力が一般の受給要件を超えていたため、制度の対象とする必要がなかった。そのため、2015年11月6日現在、アイヌ向けの支給条件緩和制度を適用した事例は1件もないという。

アイヌに対する個人給付的な優遇策に共通する一番の問題は、誰がアイヌかということを、どのような基準で誰が認定するのかということだ。

結論を言ってしまえば、「アイヌの血族(養子は一代限りとする)又は当該者(養子を除く)と婚姻により同一の生計を営んでいる者」という基準で、事実上「公益社団法人北海道アイヌ協会」が認定するのである。

このことは、2014年2月26日に「アイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ」として公開された「北海道の区域外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の対象となる者を認定する業務についての実施方針」に書かれている。

なぜこのような基準になったかというと、例えば前出の運転免許取得費用の補助や進学奨励金のように、従来から北海道で行われている施策では、アイヌ協会がアイヌの認定を行っており、そのアイヌ協会による基準を追認したからであろう(ただし、北海道の施策では市町村長にもアイヌの認定を行う権限がある)。

それにしても、「血族」「養子を除く」といった言葉が入る認定基準には危険な響きがある。憲法14条1項には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、アイヌであるかどうかという基準を「血」に求めるのであれば、人種による差別とされるおそれがあるだろう。

この憲法問題についてアイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の報告書は「事柄の性質に即応した合理的な理由に基づくものであれば、国民の一部について、異なる取扱いをすることも、憲法上許されると一般に解されており、既述のようにアイヌの人々が先住民族であることから特別の政策を導き出すことが「事柄の性質に即応した合理的な理由」に当たることは多言を要しない」としている。

しかし、アイヌ優遇制度がなかなか拡大しない背景には、前述の憲法問題によるリスクを嫌って官僚が二の足を踏んでいることがあるのではないだろうか。いくら「多言を要しない」と言ってみたところで、アイヌかどうか非常に微妙な判断を迫られるケースが生じた場合や、憲法14条1項の問題が争点となれば、多くの言葉で説明することを試みざるを得ないだろう。

実際、同報告書は「国会等におけるアイヌ民族のための特別議席の付与については、国会議員を全国民の代表とする憲法の規定等に抵触すると考えられる」と、アイヌ議席については違憲であることを認めている。そうであれば、福祉政策についても憲法問題が生じる可能性があると考えるのが自然だ。

例えば、自動車の運転免許の取得は、どう考えてもアイヌの文化や先住民族とは全く関係がない。まさか自動車の運転がアイヌの文化ではないだろう。

高校・大学の進学についてはどうか。そもそも、同報告書は明治以降に行われた日本語を中心とした教育について「同化政策」と批判している。

仮に「「倭人」がアイヌの文化を奪ってきた、その理不尽な扱いに対する贖罪しょくざいなんだ」としても、未来永劫えいごう子々孫々に至るまで続けることには合理性がないように思う。同和対策でさえ、少なくとも政府としては「過去の差別の贖罪」として事業を行ったわけではなく、「現存する低位な状態を解消する」という名目だった。だからこそ、同和対策は時限立法だったのである。

前出のように、過去には「民族存続の問題なので、同和対策のように時限立法にすることは間違いだ」という議論もあったが、末代まで「倭人」の援助で自動車の運転免許を取ったり、「倭人」の学校に通ったりすることがなぜ「民族存続」と関係があるのか、理解することは困難だ。

JASSOの第一種奨学金支給要件には「被爆者の子女」「中国帰国孤児の子女」に対する優遇策もあるが、これらでさえ2代限りであり、いずれ死文化することは確実だ。そういった意味でも、代々継承されるアイヌに対する優遇の特殊性は際立っている。

現状ではほとんどの優遇策は北海道内にとどまっており、ようやく北海道外に広げられた奨学金の優遇も、大した優遇ではない。しかし、優遇策がさらに拡大され、利用者が増えれば、問題が表面化する可能性もそれだけ高くなる。

今年から、北海道外のアイヌに対する就職支援事業が始まっているが、これが何ともお粗末なものである。

2015年3月6日に東京都中央区八重洲やえすにあるアイヌ文化交流センターで、「道外にお住まいのアイヌの方々のための職業訓練相談会」が行われた。対象は「道外にお住まいのアイヌの方で、就職のために職業訓練の受講を検討されている又は関心をお持ちの方」とされる。しかし、それは全く名目だけのことである。

実際に会場に行くと、ぽつぽつと相談に訪れる人がいる状態であるが、実際のところ相談対象はアイヌに限定されていない。もちろん、相談者がアイヌかどうか確認されるわけでもない。その場で渡されるのは、アイヌとは全く関係ない、一般向けの職業訓練施設(ポリテクセンター)のパンフレットである。相談できる内容もアイヌとは全く関係ない、それこそ最寄りのハローワークでもできそうなものだ。

何かしら、アイヌに対する特別の「何か」がないのか? その場にいた相談員に聞いたところ、はっきり言ってそれはないと、きっぱりと言われてしまった。

「北海道で、アイヌの方が住んでいる「アイヌ地区」の住民を対象とした施策はありますが、今のところ北海道以外で特別な施策はありません」

ということなのである。

それでは、ハローワークでも出来るような相談会を、わざわざアイヌ文化交流センターで行うことに何の意味があるのか。その点を相談員に問うと、

「こういった場所でないと相談する機会がないアイヌの方もいらっしゃるので…」

といった具合である。しかし、もちろんアイヌだからハローワークに行けないということもないし、多くの人にとってはアイヌ文化交流センターに出向くことの方が敷居が高いように思える。

思うに、「アイヌ政策」を具現化することが非常に難しいので、とりあえずアイヌ文化交流センターという、アイヌに関わりのある施設で「何か」を行うことで実績を作りお茶を濁した、ということではないだろうか。

しかし、それでも「アイヌ利権」拡大の動きはしばらくは止まらないだろう。

「アイヌ利権」が何が問題なのかというと、たとえ些細な事であっても「アイヌと和人は平等だ」とは言えなくなってしまうことだ。同和行政においては、一応は「平等」という建前があったが、アイヌ施策においては、もはや平等ということは考慮されていないように思う。「アイヌは特別だ」「アイヌは違うんだ」そのような主張が前提となっているように思える。

部落探訪(2)長野県長野市松代町大室

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全国の選りすぐりの部落を探訪するこのシリーズ。2回めは一人旅はもちろん、ファミリーからカップルまで楽しめる部落を紹介する。

今回訪れたのは長野市の郊外にある大室おおむろ部落である。

なぜここが部落と言えるのか。根拠となる文献が部落解放同盟長野県連合会による「差別とのたたかい 部落解放運動20年の歩み」(1967年)である。この文献には「埴科はにしな郡 松代町まつしろまち 大室(西組)」という名前で登場し、当時で22戸と小さな部落である。

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また、1933年の「全國部落調査」によれば、戸数は16戸、主業は農業、副業は藁工・日傭労働、生活程度は下とされていた。

信州の農村部落

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しかし、そのような文献を漁るまでもなく、この地には非常に分かりやすいランドマークがある。それが、写真の「長野市大室人権同和教育集会所」である。その横には「昭和60年度同和地区農業振興事業大室農機具保管施設」という農機具小屋がある。このことから、この地に同和対策として集会所が設置され、同和予算により農業振興事業が行われたことが分かる。

理由はよく分からないが、信州北部にはこのような直接的な名前の同和関係施設が多い。

その反面、当の地区住民はそこが同和地区であることをあまり意識していないようである。実は筆者は川中島近辺の女性から「自分の住んでいる場所は同和地区かも知れない」という相談を受けたことがあり、調べてみたら家のある集落内に同和教育集会所があったということがあった。

大室地区を歩いてみると、関西の同和地区とはかなり様相が違うことが分かる。

まず、教育集会所の写真を見て分かる通り、この種の施設にありがちな人権だの同和だの狭山事件だのと書かれたポスターが貼られていない。

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地区内を歩いても、同和地区にありがちな「身元調査お断り」のポスターやステッカーのようなものは一切見つからない。あるのは公明党のポスターや、レトロな広告看板くらいだ。

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集落の真ん中に高井大室神社がある。神社には庚申塔こうしんとうがあり、道祖神どうそしんもあった。いずれも信州の神社にはありふれたものである。

大室集落の大きさは明らかに22戸を超えている。ということは、おそらく教育集会所の周辺だけが「西組」と呼ばれる同和地区なのであって、神社の辺りは同和地区ではなさそうだ。

大室は「若穂わかほ」と呼ばれる地域にほどちかく、長野県民にとっては「信州若穂と言えば被差別部落」というのが知る人ぞ知る常識になっているようだ。確かに長野市の東端と、須坂市の西端にまたがる地域には部落が多い。しかし、歴史的に被差別部落かどうか、行政に同和地区として指定されていたかという意味では、全域が被差別部落というわけではない。

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教育集会所の周辺にはリサイクル業者が目立つ。

実は筆者は10年近く前にもこの地を訪れたことがある。当時は崩れそうな家が何軒かあったように思う。しかし、今回訪れた時はそのような家はなくなっていた。

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集落の周囲には畑が広がっており、長野県らしくりんごの木があった。

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集落の西側には「大室団地」という長野県住宅公社による新興住宅地がある。綺麗な住宅が立ち並んでいるが、空き地も目立つ。

古墳と温泉

この地の見どころは、何と言っても「大室古墳群」という大規模な古墳群である。

この古墳群は4~5世紀に作られたと言われ、数多くの古墳が居並ぶ姿は圧巻である。

もとは盛り土がされていたのだが、長い間に土が削れて、石室がむき出しになっているものが多い。

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古墳群は谷地にあり、ほとんどが茂みの中にある。谷であるゆえに、大雨が降ると土石流が発生することがあり、そのために流されてしまった古墳や、土砂に埋まってしまっている古墳も数多くあると考えられる。そのため、実際に古墳がいくつあるのか正確な数は分からないが、何百という単位であることは間違いない。

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麓から谷沿いに頂上まで林道が続いており、茂みの中のあちこちに石積みが見え、それらは全て古墳か古墳の一部である。ハイキングにはうってつけだし、冬場の閑散期ならジムニーかハスラーで林道を登ることも出来そうだ。

古墳館という展示施設もあるのだが、残念ながら真冬のこの時期は休館中だった。しかし、古墳群の中にはマラソンをする人や、S660に乗って走り回っている人がいた。また、犬の散歩をしている人もいた。

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そして、もう1つの見所が高台にある温泉だ。この温泉は地元の造園業者が掘り当てたものだという。

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部落内のこじんまりとした温泉かと思ったらそうではなく、各地からやってくる客でかなりの盛況ぶりである。

入浴料は大人500円。

源泉は約41度で、かけ流しの本物の温泉である。室内風呂、露天風呂、足湯、サウナがある。温泉には食塩と塩化カルシウムが豊富に含まれており、口に入ると塩辛く、そして苦い。温泉の周囲には硫黄の匂いも漂う。なかなかしっかりとした温泉である。

温泉には座敷の食堂があり、中で料理を注文してもよいし、外からの持ち込み自由である。土方やトラック運転手と思われる人が雑魚寝しているのが見受けられ、働く人にはうってつけの休憩場所である。また、地元産の野菜が売られている。

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温泉のふもとには、太陽光発電施設が見える。

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温泉の駐車場から部落を見渡すことができる。駐車場は崖の上にありフェンスがないので、アクセルとブレーキを踏み間違えたら真っ逆さまなので、要注意。

散策場所があり、疲れを癒やす温泉があり、さらに新興住宅地があることから住むにもよいこの部落だが、長野電鉄屋代線が2012年に廃線になり、部落内にあった大室駅も廃駅になってしまった。そのため、主なアクセス手段は現在ではバスか自家用車のみで、それだけが欠点である。

朝日新聞が報じた名古屋の部落料理の店に行ってきた

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新聞が「同和」を報じる場合、いろいろと面倒な制約があるためか、何だかよく分からない記事になりがちだ。昨年、12月24日に朝日新聞(ネット版)が報じた「隠れた部落差別、今も ふるさとの料理出したら離れた客」という記事もその一つ。

記事内でタイトルに関係する部分が、この一文だ。

名古屋市で居酒屋を経営する山本義治さん(38)は今年6月、生まれ育った地域で親しんできた料理をメニューとして紹介した。とたんに離れた客がいた。ふるさとは被差別部落とされた地域だ。

ご承知のとおり、報道の基本は5W1Hである。しかし、同和がからむとまず「Where(どこ)」ということが抜けてしまう。そういう制約の下で記事を書く上、何を恐れているのかいろいろとぼやかすので、ますます訳がかからなくなってしまうのだ。

後で述べるが、「居酒屋」というのは名古屋市の吹上公園の近くにある「とんやき でらホル」のことである。「被差別部落とされた地域」というのは、滋賀県近江八幡市末広のことである。

筆者は、橋下徹の部落出身ネタの件で負い目がある朝日が、同和ヨイショ記事を書いてバランスを取ったつもりになっているのかと、この記事のことはあまり気にしていなかったのだが、示現舎の読者の方から、その店は「とんやき でらホル」であると教えていただいた。

そんな折、ちょうど名古屋で用事が出来た。これは行かないわけにはいくまい。

店に入ると、朝日の記事にあった「山本さん」が厨房にいた。もちろん、筆者が真っ先に注文するのはこれしかない。

「朝日の記事を見て来ました。ぜひ、出された客が離れたという部落料理を食べたいのですが」

しかし、山本さんによれば、部落料理といのは何か特定の料理というわけではなくて、この店自体が「そういうルーツの店」なのだそうだ。例えばモツの入ったどて煮、ホルモンの串焼きなどがそれに当たる。もちろん、部落料理として最近認知度が上がっている「油かす」もある。

とりあえずどて煮、シロ(腸)、ふわ(肺)の串焼きなどを適当に注文した。

山本さんは以前は部落解放同盟員であったが、今は運動からは離れたという。しかし、部落に関しては熱く語る人である。

「部落と言っても、全部が皮革や食肉に関わっていたわけではないのでは?」と突っ込むと、「いえ、全国ですよ。あちこちに広がっていったんです」

その言葉から、筆者はピンと来るものがあった。食肉で全国に広がったといえば、もうあそこしかないだろう。前述の末広部落である。

思った通り、山本さんのルーツは滋賀の近江八幡ということだった。

朝日の記事に欠けているポイントは、「とんやき でらホル」は名古屋にあるが、部落料理が名古屋と直接関係あるわけではないこと。そして、朝日の記事中に出てくる部落解放同盟や全国地域人権運動総連合は、少なくとも現在山本さんとは直接関係はないということだ。

最大の疑問である「ふるさとの料理出したら離れた客」という話だが、山本さんによればあれは新聞記者に勝手に誇張されたことのようだ。1人か2人離れた客がいたという話をちらっとしたら、なぜかそれがクローズアップされてしまったとのこと。

中日新聞には昨年6月に「かすうどん 誇りの味」という同様のテーマの記事が掲載されたが、そちらの方が山本さんの言いたい事が伝わっているという。中日新聞の記事に山本さんのコメントとして書かれている「差別問題を理屈で訴えるのものいいけど、食を通じて伝える方が偏見の解消につながる」という言葉の通りである。

なんで部落は怖がられるのかねえ? という話をすると、「やっぱり過去の運動のやり方が原因じゃないですか」と、山本さんは語る。

さて、問題の「部落料理」であるが、関西風に近い甘めの味付けで食べやすい。「ふわ」はもちもちとしていて、意外に癖のない味だ。

チェーン店の焼肉屋等ではまず出てこない部位が食べられるので、名古屋に立ち寄る際はぜひ行ってみるとよいだろう。

ちなみに、ネットに出回っている以下の写真は草津市木川町の「じんじん」という店(既に閉店)のもので、「でらホル」のメニューには、どれが部落料理とは書いてないので要注意。

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全国「くろんぼ」探訪(2)―静岡県静岡市 クロンボ

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「くろんぼ」という名前のスポットをグーグルマップで検索してみると、その所在には偏りがあることが分かる。日本海側よりは太平洋側に多く、特に太平洋ベルト地帯に数多く分布している。もちろんそれは、人口の多さ、経済活動の活発さを反映しただけなのかも知れないが、それだけでは説明がつかないのが静岡県である。

静岡県には「クロンボ」という店が4軒もある。これらはどうも同じ系列の店らしい。

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ということで、静岡市葵区古庄にあるクロンボにやってきた。

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店の横には、黒地に白で書かれた看板がある。字が消えかけていて読みにくいが「くろんぼ本部」とある。ここが静岡県のクロンボの本部なのだ。駐車場横の看板は「クロンボ」なのに、ここは「くろんぼ」と平仮名表記になっている理由は不明である。

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何はともあれ入店しようとしたら、予想外の事態が。年中無休のはずなのに、なんと閉店中である。

よく見ると、厨房機器の入れ替えのために数日お休み中とのこと。運が悪かった。

仕方がないので、別のクロンボに行く。

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車で10分ほどのところにある、クロンボ曲金店に到着。こちらの看板のほうが年季が入っている。

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こちらのクロンボも閉店中だった。しかし、よく見ると営業時間が本部とは違うだけだった。年中無休ではないが幸いにも今日は休みではないということなので、開店の11時まで待つことに。

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昼食時に来たら、主に営業車と思われる車が多数駐車場に止まっていて、賑わっていた。

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1000円のハンバーグランチを注文。ハンバーグは肉々しい味わい。ごちそうさまでした。飲み物はコーヒー・紅茶が選べ、デザートにソフトクリームが付いてくる。

さて、なぜ「クロンボ」なのか。

店は以前のオーナーから引き継いだのでよく分からないが、当時ちびくろさんぼが流行っていたので、その時の乗りでクロンボにしたのではないかとのこと。店ができたのは40年ほど前で、確かに当時はちびくろさんぼの本が必ずと言っていいほど幼稚園、保育所、小学校にはあった。

悩みは「店の名前が放送禁止用語らしいので、テレビや雑誌に取材に来てもらえない」こと。ただ、1回だけ静岡放送が来たことがあったという。

念のため「黒人差別をなくす会」について聞いてみたが、知らないという。

静岡には黒人差別をなくす会の手が及ばなかったのかも知れない。もちろん、これだけでは判断できないが。

淡路5人殺害事件の現場を歩く

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昨年の3月9日、兵庫県の淡路島で、平野浩之さん一家8人のうち5人が殺害されるという凄惨な事件があった。

やったのは平野達彦。彼は以前からツイッターやフェイスブックで「電磁波犯罪」「集団ストーカー」といった発言を繰り返しており、明らかに統合失調症、妄想性障害の患者であった。

精神病者が関わる犯罪では、なぜか詳しい報道がぱたっと止んでしまう。御存知の通り未成年者の場合は少年法により、当事者を特定するような報道を控えることが明文化されているのだが、精神病者に関してはそのようなものはない。ただ、違うのは俗に「キチガイ無罪」と言われるように、精神病者であれば刑が軽減されたり、免除されたりすることだ。

個人を特定して報道するかどうかはあくまで「公共性」の問題であるというのが建前だが、実際のところは報道自体が「晒し者」にするための刑の一環として行われているようなところがあり、その結果、どれだけ詳しく報じるかは公共性というよりも罪の軽重に連動しているように思う。精神病者であれば罪が軽くなるので、それに連動して報道も控えるといったところだろう。

また、「精神病者と犯罪を結びつけるな」と非難することを恐れてということもあるだろう。

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さて、今年の1月某日、筆者は事件の現場である洲本市中川原町中川原にやってきた。ここがその平野達彦の家である。

筆者が歩いていると、なぜか兵庫県警のパトカーがやってきた。変な誤解をされても嫌なので、「例の事件」の取材に来た旨を告げると、「ああそうですか」といった反応であった。しょっちゅう記者が来ているので、警察もあまり気にしていない様子である。普段からパトロールしているので、今たまたま通りがかっただけだという。

家の周辺は片付けられており、人の気配がある。

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早速インターホンを押してみると、初老の女性が出てきた。事件について聞こうとすると、「取材はお断りします」とのことだった。

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こちらが事件の現場となった家だ。こちらも片付いているが、人の気配はなく、インターホンを押しても返事はなかった。

近隣の住民によれば、もう現場の家には誰も住んでおらず、生き残った家族は近くにも住んでいないという。ただ、「やった側」の家にはまだ家族が住んでいるということだ。そして、事件についての続報も、警察の取り調べの内容も、住民にはほとんど聞こえてこないという。事件について聞くと。

「新聞社のほうがよく知っているんじゃないかな。自分でも分からんようなことを知っている。」

平野達彦は中学まではおとなしくて「いい子」であったという。その後、しばらく島外に出ていたが、それから変わってしまったのではないかということだ。そして、事件に対しては怒りや恐れというより、ただ戸惑いの声が聞かれた。

「近所同士で仲が良かったのに、なんでこんなことになったのかね」

しかし、平野達彦が重度の精神病を患っていたのは間違いない。ひょっとすると無罪になってしまうのではと問うと。

「それはあり得るだろうね」

ということだ。

平野達彦の家のすぐ近くの家の住人はこう語る。

「テレビを見てたら、なんか外で騒いでて、巡査が来て、はやく戸を締めて鍵かけてと言っていて何事かと思った」

平野達彦について聞くと、やはりこんな答えが返ってきた。

「達彦くんはおとなしい子。(事件については)何の前触れもなかった」

現場となった地域は、淡路島らしい風景が広がっている。ところどころに溜池ががあり、あちこちに段々畑や棚田が広がっている。その間に家があり、集落というより散村という様相だ。また、どの家も大きくて立派だ。

「この辺りの家はみんな土地を持っていて、専業農家。達彦くんの家もそうだよ」

結局、事件の原因は誰も分からず。現時点では精神を患っていた「達彦くん」が突如発狂して事件に及んだ偶発的なものとしか言いようが無い。

しかし、今日もツイッターで「電磁波犯罪」で検索すれば、妄想性障害の患者のものと思われるツイートが流れ続けている。この病気は何なのか、淡路5人殺害事件とどう関係しているのか。可能な限り筆者は解明して行こうと思う。

北海道アイヌ探訪記(1)「アイヌ民族」を見に行こう

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人権・同和・そしてアイヌ

札幌市議会議員の金子|快之«やすゆき»氏が、2014年8月に「アイヌ民族なんて、いまはもういない」とツイッターに投稿したことが物議を醸した。金子氏の発言には一部の人々が強く反発し、マスメディアはそれに概ね同調した。一方で金子氏の発言を強く支持する人もいた。しかし、大多数の考えは反対・支持のどちらでもなく、そもそもアイヌについて「知らない」「関心がない」ということだったのではないだろうか。

筆者は長らく同和問題を追求してきたが、同和に関連してアイヌというキーワードが時々見え隠れする。中には胡散臭いと感じざるを得ない事実もある。

その理由の1つが、2004年に鳥取県が県民に対して行った、人権意識調査のことである。意識調査には、このような設問があった。

「鳥取県内において「人々の意識」や「社会のしくみ」に差別や偏見が存在していると思うのは、次のどれですか。」

これは、いくつか提示された項目のうちに、当てはまると思うもの全てに「○」を付ける回答形式である。項目には「同和地区の人々」「障害者」「日本で暮らす外国人」など、この種の調査にありがちなものが並んでおり、その中に「アイヌの人々」があった。さらに、設問通り「人々の意識」と「社会のしくみ」で別々に「○」を付けられるようになっている。

驚くべきは、その結果である。「同和地区の人々」についてそれぞれ回答者のうち59.9%と25.4%が「○」を付けていたのはいかにも鳥取県らしい。しかし、「アイヌの人々」についての結果はそれぞれ11.7%と6.5%だったのである。

つまり、鳥取県民のうち11.7%は「人々の意識」の中にアイヌに対する差別や偏見が存在すると考え、6.5%は「社会のしくみ」にアイヌに対する差別や偏見が存在すると考えているということだ。

筆者は鳥取県の出身だが、そもそも鳥取県でアイヌを見たことはないし、どこにいるという話も聞いたことがない。念のため、調査を担当した鳥取県人権局人権推進課に聞いてみたが、やはり思ったとおりである。県も鳥取県にアイヌがいるかどうかは把握していない、アイヌに対する差別や偏見があると答えた人が、どのような趣旨で答えたのかも分からないということだった。これはいったいどういうことなのか。

「日本国内に差別があるということでは?」という言い訳は通じない。設問には、わざわざ「鳥取県内において」と書いてあるのだから。

県でさえ存在を把握していない対象にどうやって「差別や偏見」を持つというのか。差別や偏見以前に、アイヌとは何なのか具体的なイメージを何も持てないというのが大多数の県民の考えだっただろう。ましてや「社会のしくみ」とはいったい何のことなのか。そもそも、鳥取県の人権意識調査なのに「アイヌ」の項目が出てくることがおかしいだろう。

ただ、人権教育に熱心に取り組んできたという、とある小学校の教員から話を聞くうちに、その理由が分かってきた。人権教育、特にその中でも先鋭的な「解放教育」の中に、「知らないことは差別である」という考え方があるのだ。

つまり、アイヌに対する差別があると答えたのは、このような先鋭的な考えに染まった人が「鳥取県でアイヌが知られていないこと」が差別であるとして、「アイヌの人々」の項目に「○」を付けたのであろう。先の教員もこの説に同意していた。

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なぜ選択肢に「アイヌの人々」が出てきたのか、これもちゃんとした理由がある。その答えは、アイヌが法務省が掲げる既定の人権課題の1つであるからだ。法務省人権擁護局が取り組む人権問題は定型化されており、アイヌの他には同和問題、女性、子供、高齢者などが掲げられている。時勢や地域性を全く無視して、国の方針を鳥取県がそのまま採用した結果、鳥取県なのに「アイヌの人々」が出てくるという、奇妙な回答項目が出てきてしまったのであろう。

「アイヌ→被差別者」ということが政府における既定事項である。世の中はそんなに単純ではないと思うのだが、官僚というのは、そう決まっていればそれを前提に動かざるを得ない。過去だろうと未来だろうと、北海道だろうと鳥取県だろうと「アイヌ→被差別者」なのである。こうして、悪い意味でのお役所仕事ぶりが発揮されることになる。本来は学問として客観的に検証されるべき事柄にまで、前例踏襲というお役所の論理が持ち込まれるのである。

2008年に国会で議決された、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」はそうした動きに拍車をかけるだろう。そして、アイヌに対する理解が深まるどころか、タブー化して、大きなお金が動きつつも、一部の人しか関心を持たず、誰も全容を把握できないという同和問題のような現象がアイヌにおいても起こるのではないか。

筆者が「アイヌの人々」と直接接触を持つ機会となったのが、砂澤すなざわじん氏にツイッターでとある集会に誘われたことである。砂澤氏は、アイヌの子孫である有名な彫刻家、故・砂澤ビッキの息子ということで、この世界では知られた存在である。しかし、今ではアイヌに対する一番の批判者となっている。なぜそうなったのかは、また後で説明することにしよう。

集会自体は「中国人に北海道の土地が次々と買われている」という話で、その事自体は正直なところ我々はあまり関心はなかったのだが、気になったのは、砂澤氏から聞いたアイヌと同和の関係である。

アイヌ協会に同和地区出身者がおり、また、同和団体(部落解放同盟)の関係者がかなり関わっている。そもそも、北海道にも本州の同和地区とゆかりのある人のネットワークがあるということだ。

後者の点については眉唾ものであるし、あまり意味のあることとは思えなかったのだが、前者のことについてはかなり思い当たるところがあった。いや、政治的な動きに関して言えば、同和とアイヌに関係がないはずがない。しかし、具体的にどのような関係があるかという点については分からない点が多い。

しかし、問題の舞台は北海道。筆者にはまったくゆかりのない土地であるし、できることは限られている。そのようなこともあって、長らくこの問題を深く追求することはなかったのだが、「金子発言」のことがあって踏ん切りがついた。

2014年9月、筆者は北海道へ向かう飛行機の中にいた。我々の一番の目的は、実際にアイヌを見ることだ。まず現場を見ないことには「金子発言」をどうとも評価できないと思ったからである。

アイヌと「生活館」

アイヌはどこにいるのか? その手がかりとなるのが「生活館」という施設である。

生活館とは、全国的には「隣保館りんぽかん」と呼ばれる施設の北海道での呼び名である。とは言っても、隣保館さえ聞き慣れない読者も多いかも知れない。そこで、まずは隣保館について説明しよう。

隣保館は、本来はスラムなどの貧困地域に設置して、福祉事業を行う施設のことである。マザー・テレサがいる場所と言えばイメージしやすいだろう。英語では settlementセツルメント houseハウス という。

戦前の日本でも、篤志家とくしかや宗教団体などが各地に隣保館を作った。しかし、戦後の高度経済成長により、日本から貧困地域が減ってゆくにつれ、本来の隣保館も減ってていった。settlement house でインターネット検索してみると、モノトーンかセピア色の写真がたくさん出てくる。本来の意味の隣保館は、ほぼ過去の施設なのである。

ただ、今でも生活困窮者の問題を抱える大阪の西成には民営の隣保館があるし、大阪水上すいじょう隣保館など、当時の隣保館をルーツとする団体が今でも福祉法人という形で残っている。

一方、日本には「地方改善事業」と呼ばれる事業によって、行政によって設置された隣保館がある。これは主に同和対策事業のために設置されたものである。特に1965年の「同和対策審議会答申」により、同和対策が「国の責務」として位置づけられ、1969年に「同和対策事業特別措置法」が国会で成立したことから、以後15兆円とも言われる国費が、近世の被差別部落にルーツを持つとされる「同和地区」のために支出された。この潤沢な予算を背景に隣保館の数は爆発的に増えた。

2002年に国の同和対策事業が終了した後も、多くの施設に対して「隣保館運営費等」という名目で、運営費の3分の1が国費から支出されている。

行政によって設置された隣保館は必ずしも「隣保館」という名を冠しているわけではなく、地域により、人権センター、地域総合センター、民主会館といった名前が付けられている。いずれにしても、隣保館が同和地区のランドーマークとなっており、その場所を調べれば同和地区の場所をおおよそ特定できることは公然の秘密である。

筆者は、隣保館を所管している厚生労働省に、隣保館に支出されている補助金について取材したことがある。その時は、同和事業として設置された隣保館に支出されている補助金の総額の市町村別資料をもらったのだが、同時に厚生労働省の職員から、補助金が出ている隣保館は同和対策事業のためのものだけではないということを説明された。それはどういうことかと尋ねると、北海道にも隣保館があり、それは「アイヌの方々のために設置されたもの」ということなのである。

ということは、「実際にアイヌを見る」という目的を果たしたいなら、生活館に行けばよいということだろう。

また、そもそも事実上同和対策のために設置された隣保館が、なぜアイヌのためという目的で設置されたのかも気になるところだ。

蘭越らんこし生活館

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とりあえず生活館に行ってみようということで、事前に千歳市役所に問い合わせ、新千歳空港に最も近いところにある生活館として紹介されたのが「蘭越生活館」である。

北海道での移動には自動車が必須である。空港近くでレンタカーを借り、千歳市の代表的な観光地である支笏しこつ湖に向かう道の途中に蘭越生活館がある。実は我々は最初、生活館を通りすぎてしまい、支笏湖の観光案内所で生活館の場所を聞いた。市の職員である観光案内所の人は、生活館と聞いた途端に「あ、アイヌの施設だね」という返事だったので、やはり地元でも生活館と言えばアイヌの施設として知られていることがうかがえた。

さて、隣保館というと、大抵入り口近くに「人権標語」が書かれたポスターがあったり、法務局の人権相談の案内が貼りだされていたりするものである。それから、地域の行事の案内や、解放同盟の強いところでは解放文化祭の案内が貼りだされているのが定番である。そして、玄関付近には解放新聞や解放同盟系の団体の出版物が置いてあることも多い。

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筆者が最初に目にした生活館はどうかというと、玄関にアイヌのサケ漁のイベントの案内が貼ってあった。中にはアイヌの生活用具が置いてあり、壁にはアイヌ協会千歳支部の歴代支部長の写真が並べられていた。また、館内にはアイヌ向けの貸付金制度の案内チラシが置かれていた。そして、学習室にはアイヌ関係の書籍が置かれ、壁にはアイヌ語の基本的な単語について説明したものが貼られていた。

要は、同和事業で作られた隣保館の、同和をアイヌに置き換え、部落解放同盟をそっくりアイヌ協会に置き換えた感じである。ただし、同和が絡むと、どうしても「差別」というものが前面に出てくるが、アイヌについては「文化」ということが前面に出され、同和が持つ独特な「陰気なタブー感」といったものは少ない。

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地元の喫茶店で食事をしながら、地元の方にアイヌについて尋ねてみた。これが同和の話題ならまずドン引きされるか、知らないと言われるかのどちらかだが、アイヌについてはそういうことはなかった。国連や国会の議決により先住民族として認められたこと、ソフトバンクのCMに出てくる犬がアイヌ犬だといったことが話題となった。

同和事業で作られた隣保館の近くには、大抵同和地区がある。では、生活館の近くにはアイヌ集落があるのか。地元の方の話によれば、そうではないらしい。

確かに、現在の千歳市蘭越周辺には昔アイヌが住んでいた。では、アイヌ集落(アイヌ語で言うところの「コタン」)が現存しているかというとそうではない。このことについて、北海道のあちこちで話が噛み合わないことがあった。

アイヌ集落が今でも残っているか? と聞くと「そんなものはないよ、第一、消防法に引っかかるから」といった答えが返ってくる。おそらく、我々が昔ながらの茅葺かやぶきの住宅を探しているものと勘違いされてしまうのだろう。

例えば「被差別部落はどこか?」と聞いたとしても、昔ながらのボロ屋が密集する部落を探しているとは思わないだろう。例えば、今は改善されて公営住宅が立ち並んでいるとしても、昔の被差別部落に由来する共同体や文化を引き継いでいるかどうかを聞いているのである。

現在の蘭越集落は、かつてのアイヌコタンを引き継いだものではない。ただし、アイヌの血を引く人が住む家は何軒かあるということだ。そのような状況なので、蘭越生活館は蘭越集落のアイヌのための生活館というわけではなく、主に千歳市全域のアイヌのための生活館である。先述のサケ漁のイベントも、千歳市とその周辺の広い地域からアイヌが集まって行われるという。

北海道のアイヌ全般に言えることとして、今ではアイヌが1つの集落で共同体を作っているということはあまりない。例えば、アイヌ協会の支部は全て市町村単位である(対して、同和地区における部落解放同盟の支部の多くは集落単位である)。

(次回に続く)

部落探訪(3)大阪府堺市堺区協和町

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今回は大阪市堺市にある協和町にやってきた。

1935年の「全國部落調査」によれば堺市耳原町、戸数880、人口3033、主業は日傭・商業、副業は履物修繕、生活程度は中とある。1958年には戸数1936、人口7358と二倍以上の規模になっている。大阪府内では、大阪市を除けば最大の部落である。

そして、大阪の同和地区を象徴するような部落と言ってもいいかも知れない。

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協和町の中心部には堺市立人権ふれあいセンターという立派な建物がある。

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これは、こちらの赤レンガの解放会館が老朽化したため、運動場だったところに新たに建設され、昨年の4月にオープンした施設だ。なお、今度は解放会館の跡地が運動場になるという。

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人権センターの前には部落解放同盟堺支部の掲示板がある。

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センターの中にある、石に彫り込まれた水平社宣言。これほど巨大な水平社宣言は初めて見た。

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センター内には舳松へのまつ人権歴史館がある。

この歴史館はなかなか見どころがある。ひょっとすると、リバティ大阪(大阪人権博物館)よりもこちらのほうがクオリティは高いかも知れない。何より歴史館の職員が地元の人で、非常に詳しく歴史を説明してもらえる。

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昔の部落の路地の様子を再現したセット。映画の撮影にも使えそうだ。

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なんと部落地名総鑑が。レプリカとは言え、これはここでしか見られないかも。10年ほど前は本物が展示されたという話を聞いたことがあるので、歴史館の職員に本物はないのか聞いてみたが、本物は既に破棄されていて昔からずっとレプリカを展示しているという。ただし、他に展示してある古文書や公文書の類は全て本物だという。

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手に取れるレプリカは、目次と序文以外は白紙だ。

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協和町のもともとの地名は舳松村字塩穴しおあな。その後、舳松村は堺市に併合されて耳原町となり、後に協和町となった。古来から周囲の地域の死牛馬を処理する独占的権利を与えられており、後に堺の町内の警察、刑の執行の役目を負うようになった。年貢が免除されており、住民は豊かで、周囲から人が集まって村が拡大したという。

なお、地区内には「ちぬが丘」という地名もあるが、これは堺の海沿いでちぬ(クロダイ)がよく釣れたことに由来するという。

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しかし、明治維新によりそれらの権利を失った。死牛馬の処理は独占事業ではなくなり、警察・刑の執行も主に旧武士が担うようになった。しかし、代々「死」に関わる仕事をしてきた村ということによる差別だけが残り、住民が満足に仕事に就けなかったことから没落してしまったという。

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大正時代になると、この地からも水平社運動の狼煙が上がる。その中心になったのが後に堺市議会議員となった泉野いずみの利喜蔵りきぞうである。

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部落の周囲にはダイキン、コニカミノルタ、前田製菓、福助などの大企業の工場がある。戦前には地元の人間を雇おうとしなかった大阪金属工業(現在のダイキン)に対して水平社が団体交渉をしたこともあったという。ダイキンは、戦後の部落地名総鑑事件で再び差別糾弾の対象となった。

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協和町は全域が堺市の土地であり、市営住宅や改良住宅等の公共施設になっているという特異な地域である。それらの土地は、もともと不良住宅地だった場所や、前述の企業の工場などの用地を堺市が買い上げたものである。

市営住宅には在日コリアンも多く住んでいる。なぜなら、大正時代に近くの朝鮮部落が立ち退きされられた時に、泉野利喜蔵がその地の住民を協和町に受け入れたからだという。しかし、外国籍である在日コリアンは戦後の同和対策事業の対象にならなかった。そのため、「部落民」と在日コリアンの間で摩擦もあったという。

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人権ふれあいセンターの隣りにある「ほてい温泉」には、こんなお知らせが。この地では、なにかと「同和問題」が枕詞になってしまうようだ。

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ほてい温泉の入浴料は200円と格安だ。館内では延々と浪花節がかけられている。浴場は広く、湯加減もちょうどよい。しかし、サウナはない。個人的にはサウナがあって、近くに食堂もあった荒本の寿温泉の方がよいと感じた。

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玄関近くには浴場の歴史が説明されていた。ほてい温泉は戦後の同和対策で作られたわけではなく、なんと100年以上の歴史ある公衆浴場なのである。

しかし、この部落の難点は、やはり公有地しかないことである。中心部から一番近いコンビニまで歩いて10分以上かかる。そのため、生活に便利とは言いがたい。今後は老朽化した施設が出た場合は、土地を民間に売り払って商業地にした方がよいのではないだろうか。

市営住宅は既に一般公募がされており、地区外からの入居者も多いという。


北海道アイヌ探訪記(2)新ひだか町シャクシャイン記念館

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新ひだか町

1965年に当時の北海道日高支庁が日高のアイヌについて詳細な調査を行い、「日高地方におけるアイヌ系住民の生活実態とその問題点」(1965年8月1日 発行者北海道日高支庁)が刊行されている。この資料から、当時の日高地域におけるアイヌの人口分布を知ることが出来る。日高は北海道の中でもアイヌが多い地域で、北海道のアイヌのうち6割がこの地域に住んでいたという。

1965年資料ではアイヌについて「民族」という表現はされておらず、一貫して「アイヌ系住民」と記述されている。一方、血縁関係を指して「人種」という表現を使い、「古くから「和人」との婚姻などによる混血によって同化が進んでいるので、人種としての「アイヌ」はすでに存在しないことがほぼ予想されているところ」との記述がある。

そのような日高地域の中で、新ひだか町は2006年に静内町しずないちょう三石町みついしちょうが合併して誕生した町である。1965年資料によれば、旧静内町に240世帯1915人、旧三石町に85世帯411人のアイヌがいたとされる。

この町のアイヌスポットと言えば、新ひだか町静内真歌まうたにある新ひだか町アイヌ民族資料館と、シャクシャイン記念館だ。千歳からは車で約2時間かかり、あまり交通の便がよいとは言えず、行こうという考えがなければ、なかなか行かない場所だろう。

アイヌ民俗資料館は、静内川の河口近くの高台にある。海が近いためか、駐車場にハマナスの実がたわわに実っているのが印象的だった。気候が適しているためか、北海道の太平洋側の海岸沿いにはハマナスが非常に多い。

筆者が訪れたのは夏休み最後の休日であったが、閑散としていた。入館料は無料なのだが、他に見学者がいる様子はない。入口付近では、昔行われたイヨマンテの様子と解説のビデオが流れている。

資料館の展示物で目についたのは、アイヌの持ち物であったという、三つともえの紋が付いた漆器、刀剣、数珠じゅず、そしてアイヌ文様の着物だ。このうち漆器、刀剣は室町時代以降に本州との交易でアイヌが手に入れた解説されている。着物についても、華やかなものは明治時代に綿織物が比較的容易に入手できるようになってから作られるようになったと解説されている。アイヌには製鉄や漆塗りの技術がない。また、北海道では木綿は栽培できない。従って、こういった物は交易で入手するしかないし、アイヌにとっては貴重な宝物であったという。

とすると、当然こんな疑問が湧いてくる。アイヌの文化と言っても、かなりの部分で和人に依存していたのではないか。そして、その歴史はそれほど長くないのではないかと。

見学者が他にいないということもあって、資料館の職員の方が、丁寧に説明してくれた。そこで、特に気になったことを聞いてみた。

「アイヌ紋様の着物は、明治時代になって作られたものなのですか?」

「綿生地を使ったパッチワークで作られるようになったのは、明治になってからのことです。それより前は刺繍ししゅうで、首元かそでの部分を装飾していました」

おそらく我々の多くがアイヌからイメージする、観光パンフレット等に載っている華やかな衣装の歴史は比較的浅く、しかも和人が提供する材料に依存していたのである。ただ、アイヌ紋様自体は確かにアイヌの文化であり、少なくとも1700年の歴史があるという。

「この刀はアイヌが作ったものではないのですか?」

「いえ、みんな本州との交易です。ただ、ツバとさやだけはアイヌが作っていました。それから、模様をアイヌが掘り入れることもありました」

「それにしても本土ではあまりないような、独特のデザインの刀ですね」

「アイヌが松前藩の鍛冶屋に注文して作らせていましたから」

アイヌについて、「和人が侵略し、独自の文化を奪った」言われることがあるが、少なくともそのような一方的な関係ではなかったようである。アイヌと和人の間には対等な取り引きが成立していたこという。

一方、アイヌ独自のものと言えば「キナ」と呼ばれるガマの葉を材料に作られたむしろ、「チセ」と呼ばれる掘っ建て小屋の住居、「イナウ」と呼ばれる木を削って作った道具である。イナウは、神道の神社でけがれをはらったり、社殿の中に立てたりする御幣ごへいによく似ており、使われ方も同じようなものだ。

アイヌ民俗資料館がある場所は、アイヌの英雄シャクシャインゆかりの地でもある。そのため、資料館の隣にはシャクシャイン像と、シャクシャインをしのぶ記念館がある。

ャクシャイン像の前には我々以外にも、女性3人のグループがおり、手を合わせて何やらお参りのようなことをしていた。

「何か、ご利益があるんですか?」と聞いてみると、「知りません」と返されてしまった。

シャクシャイン記念館もやっぱり閑散としていた。コカ・コーラの自動販売機が1台あるが「販売を中止しています」との張り紙がされている。

記念館の職員に聞いてみると、やはり来訪客はあまり多くないという。交通の便の問題があって、白老のような千歳空港に近い観光地にはどうしても負けてしまうのだそうだ。それでも、シャクシャイン法要祭がある時には遠くから多くの人が訪れるという。

ついでに、新ひだか町のアイヌ事情を聞いてみた。

「この場所にもアイヌの集落があったんですか?」

「あったのは本当に昔の話で、今はいろんなところに散らばっています」

やはり、この地でもアイヌ部落と呼べるような場所は残っていないようだ。しかし、新ひだか町には多数の生活館がある。これらの全てがアイヌとのゆかりのあるものであれば、1つくらい痕跡でも残っていそうなものだ。そこで、その点を聞いてみた。

「生活館はいっぱいありますよ、ここからだと真歌の生活館が近いです。ただ、生活館と言っても公民館ですよ。確かに昔アイヌ部落があった場所に生活館を作ったみたいですが、部落といっても当時でもアイヌの家が数軒ある程度だったみたいです。アイヌは街を作らなかったですから」

確かに1965年資料にもそのような記述がある。アイヌの部落は狭い範囲の血族で構成され、5ないし7戸が普通であり、20戸を超える部落は稀であったと記されている。

それでは、ある人がアイヌの末裔かどうか、どうすれば分かるのか聞くと、

「はっきり分かるかというとそうではないですね。昔は戸籍で分かりましたが、今はそういう戸籍は見られなくなっています。ただ、アイヌ協会はありますよ」

という答えだった。

新ひだか町内には、旧静内町内に20箇所、旧三石町内に14箇所、合計34箇所の生活館がある。最初の生活館は昭和37年に旧静内町に設置され、またこれは新ひだか町だけでなく全道に言えることだが、昭和40年代に生活館建設ラッシュのピークを迎えた。

1965年資料と現在の生活館の状況を比較すると、不可解な点がある。1965年当時にアイヌ部落とされた地区は旧静内町に18箇所、旧三石町に9箇所であり、生活館の数よりもずっと少ない。

そこで、どのような経緯で生活館が作られたのか、管理する新ひだか町福祉課に聞いたところ、このような答えだった。

「生活館は、例えば何々町といった行政区画単位で、アイヌの方が何世帯か住んでいたところに作られました」

つまり、生活館の設置場所は、あくまで建設当時その行政区画にアイヌの世帯があったということで、古くからのアイヌ部落があったというわけではないのである。

そして、現在の生活館が、単なる公民館や自治会館と変わらないということは事実である。

ある意味、アイヌにかこつけて国の予算で公民館を作ったようなもので、いい加減な話だ。

「アイヌの文化伝承のような行事も行っているのですが、なかなかやり手がいないですね。これはとてもデリケートな問題ですが、確かに昔は誰がアイヌかということを判断できるような公文書等がありました。しかし、少なくとも今は誰がアイヌかといったことを役場が把握することはできません。ですから、今現在生活館の周辺にアイヌの方が住んでおられるかということは、判断ができないです」

なお、個人給付的な施策については、アイヌ協会が認定を行い、ここでも役場が直接誰がアイヌか判断することはないのだという。

また、生活館の中には実際は使われていないものがいくつかある。旧静内町内では2箇所、旧三石町内では3箇所が閉鎖された状態になっている。

筆者は、新ひだか町内の生活館の一部を訪ねてみた。

1つ目は海岸町生活館だ。文字通り、この生活館は太平洋を見渡す海岸のほど近くにある。建物はそれほど大きくなく、同和対策施設で言えば、隣保館というより集会所や地区会館レベルの大きさである。訪れたのが休日であったためか建物は閉まっており、人の気配はなかったが、掃除はされており、利用されているような形跡はあった。ただし、入り口には「地域災害避難所」という掲示があるだけで、アイヌを思わせるものはなかった。

続いて訪れたのが御園みその生活館である。これは海岸生活館よりもやや大きく、札幌の時計台を思わせる北海道らしいデザインだ。ここにもアイヌを思わせるものは全くなく、単なる公民館であった。周辺には生活館の場所を指し示す案内板があり、周辺住民の行事等によく使われていることがうかがえた。

(次回に続く)

部落探訪(4)大阪府池田市古江

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今回探訪したのは大阪府池田市の「北古江」と呼ばれる部落である。

1977年に解放出版社が3000円で発売した「大阪の同和事業と解放運動」によれば、1958年の世帯数が171、人口は917、主な産業は植木行商とある。1935年の「全国部落調査」では世帯数が110、人口が686、主業は農園芸、副業は行商とある。

大阪と言えば都市部落で、しかも巨大な同和予算が投じられたために、公共施設が立ち並ぶ無機質な部落をイメージしがちだが、北部に位置するこの部落には、今でも田舎らしいたたずまいが残っている。

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この部落の特徴は、古民家が多いことだ。今では珍しい、藁葺わらぶきにトタンをかぶせた屋根が見える。

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部落というと、細い路地が多かったが、今では駐車場が確保されている場合が多い。同和対策事業が行われていた時代は、自家用車が急増した時代とも重なっているため、違法駐車対策は優先的に行われた。火事の時に消防車が入ってこれないなど、切実な問題もあった。

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散策する人が迷わないように、案内板が設置されている。部落内には以前共同浴場があったという。まだ、奥には古墳があるという。

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古墳に向って進む。案内板によれば、ここが茶屋があったという場所だ。

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無人販売所。漬物などが売られていた。

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古墳の方へ向かうと、朽ちた焼却炉、不法投棄禁止の看板があった。確かに山の中は不法投棄されたと思われるゴミだらけである。大阪の部落は昔は不法投棄が非常に多く、大阪市内でも平気で家電製品などが捨てられ、壊れた自動車が放置されていた。今はかなり改善されたが、ここではまだ問題があると感じる。結局、古墳の場所はよく分からなかった。

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引き返して、今度は急斜面の階段を降りる。

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この部落のさらなる魅力は、細い路地と、空き地と、廃墟である。廃墟マニアにはたまらないだろう。

急傾斜地の上、区画整理もすすまなかったのか、部落内は、わずか1~2メートルの幅しかない道がほとんどだ。

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部落の中に売土地があり、ここには「駐車場」との立て札があるが、そもそもどうやってここまで車を入れたらいいのか分からない。軽自動車ならかろうじて入れるのかも知れないが。

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最寄り駅は能勢電鉄滝山駅で、途中で阪急宝塚線に乗り換えると30分強で大阪市中心部(梅田)にアクセスできる。

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部落内には広い家ばかりではなく、大きく新しい家がある。なぜか家の周囲には塩が撒いてあった。以前は、解放同盟系の団体により清め塩は差別だといった趣旨の主張がされたことがあったのだが、それはまた別の問題である。

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掲示板には解放新聞が貼られていた。

北海道アイヌ探訪記(10)アイヌ民族否定論

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シリーズ記事一覧

アイヌ研究者・河野こうの本道もとみち

2015年3月2日、河野本道氏が亡くなった。旭川の川村兼一氏が名前を挙げていた、アイヌ民族の否定論者である。

実は筆者は2014年9月に氏に会っていた。今思えば、生前にもっと聞くべきことはあったが、後悔先に立たずである。

場所は北海道大学の近くで、河野氏行きつけの喫茶店。河野氏はそこでは先生と慕われていた。

「2008年6月6日の、アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議、あんなものは無効ですよ」

河野氏はそう主張する。河野氏の父親の河野広道ひろみち氏も著名なアイヌ研究者であり、まさに研究者の家系である。北海道各地にあるアイヌに関する博物館に、図書室のようなところがあれば、今でも必ず河野親子のどちらかによる研究書を見ることができる。

河野氏はアイヌ協会でアイヌの歴史を長らく研究していたのだが、アイヌ民族否定論を主張したことで、アイヌ協会を追い出されてしまった。それだけでなく、河野氏はアイヌ研究界でも孤高の存在となった。

なぜこのようなことになったのか。河野氏によれば、事実に基づいて研究をすれば、そのような結論にならざるを得ないという。

「そもそも、人種というような概念は人類学的には否定されています。血でアイヌを定義することはできません」

例えば、体毛が濃いというアイヌの特徴に関して言えば、本州以南でも体毛が濃い人はいるし、アイヌには体毛の薄い人もいる。ただ、北に行くほど体毛の濃い人が多いという傾向があるだけであって、体毛の量でアイヌかそうでないかといった分け方は出来ないというのだ。

河野氏によれば、北海道は人間が快適に暮らせた北限であるという。そして、日本列島は大陸の東の端にあり、それより先は太平洋によって阻まれている。そのため、アイヌには大陸からやってきた人の様々な血が混じりあっているという。

また、文化的にも決して孤立していたわけではなくて、有史以前から本州との交易や人の移動があった。使用していた道具、武器も交易で手に入れたものだし、アイヌの楽器として有名な「ムックリ」も東アジアの民族全般に見られるもので、アイヌ固有ではない。本州から津軽海峡を渡って住み着く人も多くいた。

「アイヌが和人に土地を奪われた」ということも、河野氏は次のように否定する。

「アイヌの人口は近世の終わりまでほとんど変わっていなくて、2万人くらいです。それだけの人口を北海道の沿岸に並べたらどうなるか、検証してみたの。土地も資源も有り余るほどありますよ」

つまり、そもそもアイヌは土地を所有するという概念を持つ必要がなかった。よく言われる「アイヌは自然を大切にしてきた」という考えも、アイヌが積極的にそれをしてきたというより、単に自然を壊せるほどの数も力もなかっただけのことである。

ただ、これだけは北海道のアイヌ固有の文化だと河野氏が主張するのが、「アイヌ紋様」である。

「あれは、もともと単なる網目模様だったのが、渦を巻くように変わってきたんですよ。これは私が証明しました。アイヌ紋様は1000年以上の歴史があります」

河野氏は自慢気に話す。

「ラーメンの丼の模様とは違うんですか?」

と筆者が問うと、「違います。ラーメンの丼は反対方向に巻いているけど、アイヌ紋様は同じ方向に巻いてるでしょう。これは、紋様の成り立ちが違うからなんですよ」と河野氏は妙に熱っぽく語った。

工芸家・砂澤すなざわじん

筆者が河野氏に会うことになったのは、砂澤陣氏の紹介があったからである。砂澤氏はアイヌの著名な芸術家、故・砂澤ビッキ氏の息子であり、砂澤氏自身は工芸家である。

砂澤氏は、知る人ぞ知るアイヌ協会批判の急先鋒である。そのため、砂澤氏もアイヌ協会を除名された。

アイヌ協会に所属するアイヌに砂澤氏のことを聞くと、決まって「あいつはヤクザだ」とか「右翼だ」といった返事が返ってくる。アイヌ協会を批判するだけでなく、本人も言うとおり、過去にあまり素行がよくなかったことと、体に刺青を入れていることから、そう言われるのだろう。

砂澤氏の主張は、アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議、そして白老の民族共生の空間の建設など一連の動きは「日本人分断工作」ということである。

「利権とかなんとかじゃなくて、完全な分断工作だよ。国連で先住民族決議というのをやって、それを受けて国会で決議をやっちゃったでしょ」

砂澤氏自身、アイヌの家系ではあるのだが、それはそれとして自分の帰属意識は日本にあるという考えだ。砂澤氏が許すことが出来ないのは、アイヌの文化や歴史が歪められていることだ。

砂澤氏は、マタギの文化と変わらないものがアイヌの文化として紹介されたり、明治以降に作られたようなものまでがごっちゃにされたりしていると指摘する。

例えば、イヨマンテにしても砂澤氏によればマタギの儀式だ。あれは狩猟の練習のようなものであるという。

アイヌ工芸も大正時代にスイスで作られていた熊の木彫を真似て作ったのが始まりで、アイヌの文化とは関係ない。特に、砂澤氏にとって不愉快なのは、時々父のビッキ氏の作品がパクられていることだ。

アイヌの道具として博物館で展示されているものも、ほとんどは和人から買ったものだ。アイヌの神話や伝承というのも実はほとんど残っていないので、それでは足りないから新たに作るために一般からストーリーを募集することまでやっている。

確かに、筆者がアイヌの博物館や観光施設を巡ると、そういったものが見受けられた。そもそも、アイヌは文字を持たないし、物事を後世に遺すという概念が乏しかったのではないかと思えるところがある。

「でも、この際ファンタジーはファンタジーだとはっきり言って、エンターテインメントとして楽しむならいいのでは?」

と筆者が問うと、「俺は絶対関わりたくない。気持ち悪いから」と砂澤氏は苦笑いした。

現在、アイヌの文化とされているものの多くが作り物に過ぎないということは、観光に関わる利権の問題で、要は金の問題である。しかし、砂澤氏がさらに深刻だと指摘するのは、「差別」にからむ問題と、歴史の捏造である。

砂澤氏も自分の子供の頃の経験から、アイヌに対する差別があったことは否定しない。今でもアイヌの衣装を着て街を歩いたら、馬鹿にされるだろうと言う。その反面、父のビッキ氏はアイヌであっても作品の価値を正当に評価されたし、砂澤氏も職人としての自負がある。

「一番たち悪いのは、周りに持ち上げられることで自分が強くなったと勘違いしてさ、それが慢性化してそこにお金が落ちる。差別されてないのに、自分が差別されていると言って自分が高揚している人が凄い多いんだよね。ちょっとのことを大げさに言って、弁論大会に出て、それで賞をもらうでしょ」

奇しくも2014年9月と言えば、いわゆる従軍慰安婦問題で朝日新聞が「済州島で朝鮮人を強制連行して慰安婦にした」という趣旨の過去の記事の誤りを認めたことが大きな話題となった。アイヌの歴史についても、共通の問題があるという。

国連や国会における、アイヌを民族と認めるという動きには、日本政府がアイヌに対して民族浄化や文化殺戮をやったという考えがセットになっており、砂澤氏はそこが大きな問題なのだという。

「やんわりと馬鹿にされているんだよ。北海道の開拓の歴史は、侵略の歴史だと。そこに怒らないのであれば、右だろうと左だろうと、国に対する帰属意識だとか、誇りだとか言う資格はない」

この点は、筆者は概ね正しいと思っている。

少なくとも明治以降、日本政府によってアイヌに対する民族浄化が行われたと本気で主張する人はいないだろう。しかし、文化殺戮についてはしばしば言われることがある。日本政府によってアイヌの文化が奪われた、アイヌ語を奪われたという主張である。

例えば、1999年12月7日に開催された法務省の人権擁護推進審議会で当時のアイヌ協会の笹村ささむら二朗じろう理事長が、「アイヌ語使用の妨げと、日本語使用の強制、独自の風習の禁止」が明治政府により行われたと主張している。

しかし、そのような行為を政府がアイヌに対して積極的に行ったという根拠は見つけられなかった。例えば、狩猟の制限は人口が増えればどうしても必要なもので、むしろやらなければ長期的には狩猟自体が出来なくなってしまうものだ。茅葺きのチセを作るなということも、人口が増えてチセが密集すれば防火上非常に危険なことになるので、避けられないだろう。

逆に、文献を当たると、当時の日本政府はアイヌの文化を出来る限り尊重していたように思われる。例えば1934年に作られた「アイヌの犯罪について」という司法レポートには、次のようなエピソードが書かれている。

あるアイヌが汽車の中に置かれていた他人の荷物の中身を確認しようと、マキリ(短刀)で荷物の紐を切った。そのことで、彼は窃盗未遂に問われ裁判にかけられた。しかし、判決は無罪であった。なぜなら、当時アイヌがマキリを持ち歩いて、安易な使い方をすることは当たり前のことで、紐を切るのは紐をほどくのと同じ感覚である。よって、本当に単に荷物の中身を見たかっただけで、悪意があったとは考えられないという判断である。

だから、アイヌに対して法律を運用する時は、彼らの風俗と習慣を考慮しなさいというのがこの本の趣旨である。

また、アイヌは男性であれば自分の財産を誰も知らない場所に隠して、死後もそのままになってしまうということがよくあったという。また、家は女性のものという考えがあり、女性が亡くなると家を燃やすという習慣があったという。博物館や文献などでアイヌに関するそういった記述を目にすると、前述の通り、そもそもアイヌは後世に何かを遺すということに無頓着だったのではと思ってしまうのだ。

それに、和人から漆器や刀を買い入れてきた人たちが、和人が洋服を着たり自動車に載ったりしているのをはたから眺めるだけで、古くからの生活を変えないということは、とても想像できない。

そして、アイヌ語に関しても、禁止されたという根拠はどこにもなく、むしろ北海道各地の地名としてアイヌ語が残っている。

ちなみに前出の審議会で阿部ユポ氏は「道路標識にしても地名表示にしても、アイヌ語の表記というのは日本にはないわけであります」と発言しているが、そのそもアイヌ語には文字がないのだから、もし「アイヌ語に当て字をしたものはアイヌ語の表記ではない」と言うのであれば、それでは何だったらアイヌ語の表記と言えるのかということになってしまうだろう。

一方、現代ではテレビもラジオもほとんど標準語で、公式な文書は標準語で書くことを半ば強制されているのに、津軽弁や琉球方言のような標準語とかなり違った言葉が今でもしっかりと残っている。この違いをどう説明するのだろうか。

結局、昔から北海道で自由気ままに暮らしてきたように、自分たちが今置かれた状況に合わせて臨機応変に変わっていくこと自体がアイヌの文化だったのではないだろうか。

(次回に続く)

全国「くろんぼ」探訪(4)―京都府京都市南区 クロンボ

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今回訪れたのは、京都市の洛中にある喫茶店、クロンボである。

筆者にとって京都の飲食店と言えば、一見さんお断りのように、いろいろと難しいイメージがある。もちろん、今回訪れたクロンボは一見さんお断りではないのだが、小さなお店なので、よそ者である筆者にはやや入りづらい雰囲気がある。

特選カレーが名物とのことだが、訪れたのは朝だったので、モーニングセットにした。

ミニサンドイッチは、ゆでたまごやスクランブルエッグではなく、半熟の玉子焼きのようなものが挟んであるところが特徴的だ。これが和風テイストでなかなか美味しい。

さて、本題の「クロンボ」について聞いてみると、答えは一瞬だった。

「看板にダッコちゃんがあるでしょ?」

やはり、静岡のクロンボと同じく、かつてのダッコちゃんブームに便乗した命名であった。

「クロンボという店に難癖つけまくった堺市の親子を知ってますか?」

と聞いてみると、

「昔そんなんありましたね。うちには来なかったですよ」

ということだ。

ここでも、黒人差別をなくす会の足跡は見ることが出来なかった。やはり川崎のクロンボはビギナーズラックというものだったのだろうか。

ところで、台湾、香港、シンガポール辺りには「黒人歯磨き」なるものがあると聞いたので買ってみた。

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この歯磨きも、かつてはポリティカル・コレクトネス・クレーマーによる迫害を受けたというが、頑なにブランドを守り続けている(もっとも、昔はDARKIEという英語名で、黒人の顔のイラストもいかにも「くろんぼ」という絵柄だったのが、抗議を受けてDARLIEと改名し、今のようにさわやかな絵柄になったらしい)。全国の「くろんぼ」も、この歯磨きのように死守されるべきだ。

ちなみに、台湾には「白人歯磨き」もあるという。しかし、こちらは黒人歯磨きほど売れていない。黒人の圧勝である。

ポリティカル・コレクトネス・クレーマーはそんなに平等が好きなら「白人歯磨きが売れないのは、白人差別だ」と発狂してみるべきではないだろうか。

北海道アイヌ探訪記(11)アイヌ協会の不正会計

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アイヌ協会で相次いだ不正会計問題

2009年、北海道アイヌ協会では相次ぐ不正会計が明るみになった。アイヌ協会の機関誌「先駆者の集い」119号(2010年3月31日)では、2010年3月7日の臨時総会で秋辺得平氏がアイヌ協会理事から解任されたことが報告された。

その理由として「アイヌ文化振興財団助成事業とアイヌ民俗文化財保存・伝承活動事業に係る疑義と、非協力的態度」が挙げられている。同号では「補助金等に関する不祥事について」という記事が掲載されたが、500字程度の記事で「不適切な執行状況」があった旨が報告されているのみで、その中身は詳しく説明されていない。

この問題については、2010年1月26日以降、北海道新聞等が報道していた。

当時の北海道新聞によれば、秋辺得平氏が代表理事を務め、アイヌ協会釧路支部に物品の販売などを行っていた釧路アイヌ民芸企業組合の2008年度の決算書が道に提出されず、2010年1月下旬に道が組合に立入調査を行った。その結果、会計書類に書かれた内容と実態が合わない点があることが次々と発覚した。

例えば道の助成金で行ったイタオマチプ(アイヌが使っていた帆船)の復元事業で、書類上は75万円もする特殊なロープを使ったことになっているが、実際には安価な市販のロープが使われていた。また、イチャルパ(アイヌの慰霊祭)の踊り手に謝礼を支払ったはずなのに、踊り手とされた人の一部がイチャルパへの参加を否定した。

アイヌ協会は2010年2月1日の理事会で、秋辺得平氏の理事長解任と釧路支部長辞職勧告を臨時総会に提案することを全会一致で決議したが、その後も道の調査により釧路支部での不正会計が次々と発覚。2月18日は物品の購入額の水増し、アイヌ語講座などの架空事業、事業に参加していない人に謝礼を支払っていたなどして不正に受けていた助成金約711万円の返還を道が請求することになった。

問題は釧路支部だけでは終わらなかった。前述の問題には、釧路支部が事務を代行していた網走、美幌びほろ厚岸あっけし支部も関与。さらに帯広支部、旭川支部でも不正会計が見つかった。

3月12日にはアイヌ協会本体でも問題が発覚。「アイヌ中小企業振興対策事業」でアイヌ工芸品の展示会のための補助金が、対象外のはずの物品販売の事業にも使われいた。しかも、過去30年にわたって物品販売による収益を帳簿に記載していなかった。

その後も次々と問題が発覚。2010年9月27日付けの北海道新聞によれば、不正受給として道から返還を求められた金額は約1100万円。不正に関わったとしてアイヌ協会は札幌、旭川、三石、千歳、新ひだか、白老、帯広の各支部長を厳重注意処分とした。また、網走、美幌、厚岸、紋別もんべつ、釧路地区支部連合会については、秋辺得平氏の強い関与により行われたものとして、注意処分に留めた。

不正発覚後、補助金の返還がなかなか進まない中、いち早く補助金の返還を決定したのがアイヌ協会釧路地区支部連合会で、5月9日に連合会分の約56万円を各会員が約3000円ずつ分担して返還することを決めた。ちなみに、当時の連合会の会長が、阿寒アイヌ部落の「デポ」こと秋辺日出男氏である。

小野寺秀道議

アイヌ協会の不正会計が明るみになったのは、小野寺おのでらまさる北海道議会議員が、道議会で質問したことが発端である。なお、小野寺氏は2015年4月12日の北海道議会選挙には出馬せず、現在は議員の立場を退いている。

小野寺氏は、金子市議の発言が問題になるずっと前から、アイヌ協会にからむ不正の問題を追求していた。筆者が北海道を訪れた2014年9月当時、小野寺氏は金子氏について、例の発言問題があったので連絡は取っているが、最初から面識があったわけではなく、また連携してきたわけでもなく、独立してアイヌ協会の問題にぶつかったのだという。

小野寺氏がアイヌ協会について疑念をもったきっかけは、アイヌ協会の前身のウタリ協会支部の会員数が不自然に変化することだった。

「ある時、羅臼らうすの協会の会員が2人か3人だったのが、急に200人くらいになったことがスタートです」

この事があったのが1997年のことである。そして、2002年には一転して会員数が70人程度に減少。これはさすがにおかしいのではないかと、ウタリ協会内部でも問題になっていたという。後で分かったことであるが、この会員の増加には漁業補償にからむ問題が関係していたのではないかということだ。例えばウタリ協会本体に無断で「これだけアイヌがいるのだから、漁業補償をして欲しい」といった趣旨の文書が羅臼支部の名前で農林水産省に提出されていたという。

一方で、小野寺氏が目をつけたのは、「誰がアイヌか」という明確な認定基準がないから、このような事が起こるのではないかということだ。

小野寺氏が徹底的に調査したところ、羅臼支部の会員の何人かが大学修学資金の貸付制度を利用しており、さらに制度の対象者の年齢を調べると50代の人が普通にいたりと異常に高いこと、多くの人が通信制の大学に入って、しかも1年以内に自主退学しているのに修学資金が支給され続けていること、制度の存在自体があまり広く知られておらず対象者の枠のほとんどをウタリ協会の役員が使い切っていること、対象者の住所が北海道外だったり、中には明らかに韓国系の名前の人がいたりしているなど、不審な点がいくつも見つかった。

アイヌに絡んでネットなどで噂される「在日がアイヌになりすましている」という話の出処はこれである。

大学修学資金の貸付制度については「アイヌ利権とは何か」でも説明した通りだ。しかし、年間約80万円の資金が貸付金といいながら、実質的には給付金のような状態だっただけではなく、対象者も何でもありに近い状態になっていたというのだ。

そして、2009年から相次いだ助成金問題に関連して、さらに大きな問題もあり、小野寺氏としてはさらに追求すべきこともあるのだが、自民党は公式にはアイヌ政策を推進していることもあって、自民党に所属する小野寺氏が全ての事柄を追求できるわけではないという。

助成金の問題は悪質で、はっきり言って不正会計というより助成金詐欺である。架空事業など、行政側から刑事告発されてもおかしくない案件であるし、これほど不正が相次いだら、事業自体が中止になりそうなものである。しかし、そうならないのはなぜか。

「それは、国の方でアイヌ文化を保護するという法律があるので。また違う形で保護しますと言って、同じような事業をやる。そういうことなんです」

また、自動車の運転免許の取得費用の助成のような、明らかにアイヌの文化とは関係ない事業についても、独特の論理で続けられるという。

「アイヌの人たちは虐げられていたので、その部分の補償をしないといけない。だから職業訓練をして、資格を持たせて、世の中に出しましょうという感じです。辻褄が合わないけど、そういう話なんです」

ちなみに、小野寺氏の祖父はかつて建設会社を経営し、千葉県で仕事をしていたことがあり、同和との関わりについて祖父から様々な事を聞かされていたため、同和とアイヌの関係についてもある程度造詣があるのだが、あえてその関係の話はしていないそうだ。

(次回に続く)

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