天理市嘉幡は古代からの歴史があり、なおかつ朝鮮からの渡来人により開かれたとの記録がある、珍しい部落である。
1935年の記録では、73世帯、地名は「嘉幡西方」とある。その名の通り、現在「嘉幡町」と言われる地域には概ね2つの集落があり、そのうち西側が部落である。
自治会名は「嘉幡西」である。
部落内の道は比較的広いが、他の部落で見られた路上駐車は全く無い。
掲示板には同和や部落や人権を思わせるものはなく、自治会がしっかりと活動していることがうかがえる。
部落の西側に川がある。写真は上から順に東から西に川を越えて撮影した。川の西は一般地区だが、明らかに部落の方が土地が高いことが分かる。案内人によれば、これは、この部落がもともと差別されていなかった証拠ではないかという。
※読者の方から指摘を頂きました。川の西側の磯城郡川西町下永も部落で、全国部落調査に記載があります。ここでは2つの部落が川と市境をまたいで隣接しているということになります。
『日本書紀』には仁賢6年(493年)に、須流枳・奴流枳と呼ばれる高麗の皮革職能集団が朝廷に献上されたとある。彼らの子孫は倭国山辺郡額田邑にいたとされる。この「額田邑」は、地名からすると現在の大和郡山市額田部北町、南町と見られる一方、江戸時代に書かれた『大和志』には額田部村の隣の嘉幡村に皮革加工の村があるとの記述があり、嘉幡こそが須流枳・奴流枳の末裔が住む村との説が有力である。
渡来人の職能集団は決して賎民ではなく、むしろ優遇されていたことから、嘉幡の土地が高いのは、須流枳・奴流枳に良好な土地が与えられたと見ることもできる。
そのような、古代からの歴史を持つ嘉幡ではあるが、同和事業が行われた部落の特徴がよく見られる。
部落には公営住宅があり、駐車場にはレクサス、クラウンが停まっている。
空き地と廃墟がいくつか見られるが、取り立てて多いわけではなく、空き地に関しては草刈りや清掃が行われていることが伺える。
隣保館、公園、保育所があり、「自警団」もある。
一方、新しい家や普通の住宅地らしい風景もある。全般に荒んだ感じはない。