静岡県浜松市中区花川町は、かつては吉野町と呼ばれた、1000年以上の歴史がある部落である。
『しいの木の里 愛称標識の由来』(平成6年3月)によれば、延長元年(923年)に大和国(奈良県)より2人の朝廷の要人であった落武者が現在の芳池橋の辺り(花川町54番地付近)に居を構えたとの伝承があるという。
花川町は昭和38年に同和対策審議会による精密調査の対象地区となった。そのため、非常に詳細な資料が残されている。以下が、その調査報告書である。
昭和38年度同和地区実態調査報告書(静岡県浜松市吉野町地区)
報告書によれば戸数は361戸、人口は1803人とある。典型的な農村部落であることから調査対象に選ばれた。
報告書では、部落の起源については応長元年(1311年)に大和国から来住した落武者により部落が形成されたとしている。しかし、より新しい資料である『しいの木の里 愛称標識の由来』によれば、昭和62年に芳池橋付近で発掘調査を行ったところ奈良時代から平安時代のものと推定される土師器と呼ばれる土器の破片が見つかったとされているので、延長元年の説の方が信憑性が高いと思われる。
いずれにしても、部落の起源に朝廷が関係しており、吉野町という名前も大和国の吉野に由来するものであり、そしていわゆる落武者部落であることは間違いないのだろう。
最初に、部落のはずれにある白山神社に立ち寄った。報告書に「神社は関東地方特有の白山神社があり年2回の祭礼が行われている」という記述がある。小高い場所にある、立派な神社だ。
神社の由緒によれば、延元3年(1338年)9月に後醍醐天皇の皇子である宗良親王が参ったとある。
神社にはこのような掲示物があった。
神社の近くを散策すると、日蓮宗の寺を見つけた。名前は福聚山長栄寺。報告書には身延山とあるが、山梨にある身延山の宗派に属するという意味だろう。
大きな寺で、信徒も多いことが伺える。
報告書には「吉野地区内に第2種公営住宅の建設を見るに及んで…」とある。昭和38年以前のことなので、相当古い住宅なのだろうと思い、その住宅を探した。
周囲に一面の畑が広がる中、見えてきたのがこの花川団地(旧吉野団地)だ。
見たところ比較的きれいで、浜松市のウェブサイトによれば昭和49年度に建設したとある。しかし、付近の住民に聞いてみると、花川団地は昭和30年代には既にあったという。つまり、今の花川団地は同じ場所で建て直されたものだ。
とは言え、今となっては古い団地であることは変わりない。さきほどの住民によれば、花川団地は原則として新規入居者の募集はしていない状態で、建て直しの予定もなく、入居者が出ていくのを待っているような状態だという。ちなみに家賃は1200円。
住民はいろいろなことを知っており、報告書にある北村電三郎の胸像の場所も教えてくれた。ただ、同和地区実態調査報告書を見せると、思いっきり怪訝な顔をされた。「同和」というのは、あまり地元では触れたくない話らしい。
部落の中に、空き地があった。車が何台か停めてあり、県外ナンバーの車もあるので、誰でもここに駐車していいのか通りがかりの人に聞いてみると、誰でも駐車してよいとのことだ。
畑があり、みかんの木があり、農家の作業小屋があり、ごく普通の農村といった感じだ。しかし、先述の通り県外ナンバーの車が停まっており、やたらと人とすれ違うのが気になった。もしかすると、皆部落探訪に来ているのかと思ったのだが、無論そうではなかった。
通りがかりの人に「バラ園はどこですか?」と聞かれた。しかし、筆者もよそから来たので知るわけがない。そこで、さきほどの空き地に車を停めた人に聞いてみると、近くに有名なバラ園があり、今が見頃なのでそれを見に来たというのだ。
さきほどの空き地から人の流れについて行ってみると、何やら賑やかな場所が見えてきた。
(次回に続く)