部落、あるいは同和地区と呼ばれる地域には不思議な魅力がある。
公式には差別される地域であり、行政的にはその場所は半ば秘密とされること自体に興味をかき立てるものがあるが、実際にその地を訪れると実に多種多様な部落があることが分かる。
本シリーズは、そんな部落のなかでも選りすぐりの地を探訪し、レポートするものである。
都心にある代表的な部落
東京に部落はないと言われる。これは確かにその通りで、行政が「同和地区」として指定した地域は東京都内には存在しない。しかし、なぜか部落民の団体である「部落解放同盟東京都連合会」が存在し、東京の各地で、「ここが部落だ」と主張せんばかりに支部を設置しているのも事実である。
その中でも代表的なのが荒川区荒川8丁目である。
この部落については「荒川の部落史 まち・くらし・しごと」(「荒川部落史」調査会・編/現代企画室)が詳しい。
それによれば、現在につながる荒川の部落が形成されたのは、明治初期に皮革工場が作られ、この地に屠場・油脂工場などの関連産業が集中することになった。そのため、屠殺業が盛んであった滋賀県をはじめとする各地の部落から住民が移り住んできたという。
従って、荒川8丁目は新しい部落である。
筆者は、この地を3年前にも訪れたことがあるという、部落探訪マニアと共にここに訪れた。
油脂、皮革、そして胞衣工場
我々は都電荒川区役所前駅から地区内に入った。漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に出てくる下町よりも、さらに下町といった雰囲気である。
古い住宅があり、その奥はようやく人が通れるだけの路地になっている。
路地を抜け、鉄板が敷かれた道を歩く。この辺りは産廃処理業者が多く、それを運ぶトラックが沈み込まないよう敷かれているのだろう。
油脂工場があり、フォークリフトで動物の骨を運ぶ作業を行っていた。工場の周囲は、動物性のものを焼いているような、ケモノ臭い匂いがする。ホルモン焼が好きな人にとってはいい匂いかも知れないが、人によって好き嫌いが分かれる匂いだ。
荒川と言えば度々このような工場に「悪臭がひどい」と住民から苦情が入るようで、解放新聞東京版にはそのような苦情に対して「地域の成り立ち」を理解するよう住民に求める記事が載ったこともあった。
ただ、今回の探訪でそれらしい匂いがしたのはここだけである。
地区の北側には東京都下水道局の下水処理場がある。部落探訪マニアによれば、実は3年前に探訪した時には、この工場の悪臭が最も酷く、有機酸のような匂いが漂っていたという。
しかし、今回の探訪では全く匂いを感じなかった。工場マニアでもある部落探訪マニアによれば、悪臭対策の設備が新設されたようで、おそらく写真の中央にある白いパイプがその設備の一部ではないかということだ。
皮革工場があった。外壁の一部がはがれており、味わいのある建物である。なぜか、この地区の工場は古いままになっている建物が多い。補修しないのだろうか。
そして、この地区でも特徴的なのは胞衣工場である。胞衣というのは胎盤など後産で出てくるもののことで、東京都では「胞衣及び産汚物取締条例」により、知事の許可を得た業者だけが処理を行うことができる。胞衣工場は産汚物の他、中絶された胎児などの処理も行う。
写真は大正胞衣社で、文字通り大正時代からある胞衣工場である。そのたたずまいも非常にレトロで、大正時代から変わっていないかのようだ。工場が動いていなかったのか、あるいはもともとそのようなものなのか、残念ながら外から稼働している様子はうかがえなかった。
工場の近くには歩道橋があり、ここから地区を見渡すことができる。
地区内は古い建物が多い一方で、空き地、取り壊し中・建設中の家、真新しい団地も目立つ。部落探訪マニアによれば、3年前と比べて、明らかに古い住宅が減ったという。部落のたたずまいも徐々に消えつつあるのだ。
支部と隣保館
部落に付き物なのが、部落解放同盟の支部と隣保館である。
部落解放同盟荒川支部に行くと、「石川一雄さんは無実です!」「狭山事件の再審開始を」というビラが貼ってあった。同じようなものはどこの解放同盟支部でも見られるが、東京は東京高裁があるだけあって、特に力を入れているように感じる。
さつき会館の掲示板。
さつき会館は「全国隣保館協議会」にも加入しておらず、正式に同和地区との指定もされていないことから、隣保館と言えるかどうかは微妙だが。
中に入ると、ここが同和関係の施設であることを主張するような展示がされていた。
それにしても、なぜ「さつき会館」なのだろうか。部落探訪マニアによれば、狭山事件があったのが1963年5月1日であることから、5月という意味での「さつき」ではないかという。
あれこれ想像するより、聞いてみるのが早いということで、職員の方に名前の由来を聞いてみた。しかし、ここに赴任してあまり立っていないので、詳しくは分からないとのこと。他の職員にも聞いてくださったが、その場では分からず、調べて電話してくれるということになった。
「部落のフィールドワークに来たんです」
と職員に言うと、
「解放同盟荒川支部に電話しましょうか」
と提案して下さったが、
「解放同盟さんとは微妙な関係なので遠慮しておきます」
と辞退した。しかし、今考えればお言葉に甘えた方が良かったのかも知れない。
さて、後日さつき会館から電話がかかってきた。
さつき会館という名称は平成元年1月に地元の「集会施設運営委員会」で決められたという。しかし、当時の議事録が残っていないため、結局名称の由来は分からなかったという。
案外、狭山事件説が正しかったりするかも知れない。