今回は大阪市堺市にある協和町にやってきた。
1935年の「全國部落調査」によれば堺市耳原町、戸数880、人口3033、主業は日傭・商業、副業は履物修繕、生活程度は中とある。1958年には戸数1936、人口7358と二倍以上の規模になっている。大阪府内では、大阪市を除けば最大の部落である。
そして、大阪の同和地区を象徴するような部落と言ってもいいかも知れない。
協和町の中心部には堺市立人権ふれあいセンターという立派な建物がある。
これは、こちらの赤レンガの解放会館が老朽化したため、運動場だったところに新たに建設され、昨年の4月にオープンした施設だ。なお、今度は解放会館の跡地が運動場になるという。
人権センターの前には部落解放同盟堺支部の掲示板がある。
センターの中にある、石に彫り込まれた水平社宣言。これほど巨大な水平社宣言は初めて見た。
センター内には舳松人権歴史館がある。
この歴史館はなかなか見どころがある。ひょっとすると、リバティ大阪(大阪人権博物館)よりもこちらのほうがクオリティは高いかも知れない。何より歴史館の職員が地元の人で、非常に詳しく歴史を説明してもらえる。
昔の部落の路地の様子を再現したセット。映画の撮影にも使えそうだ。
なんと部落地名総鑑が。レプリカとは言え、これはここでしか見られないかも。10年ほど前は本物が展示されたという話を聞いたことがあるので、歴史館の職員に本物はないのか聞いてみたが、本物は既に破棄されていて昔からずっとレプリカを展示しているという。ただし、他に展示してある古文書や公文書の類は全て本物だという。
手に取れるレプリカは、目次と序文以外は白紙だ。
協和町のもともとの地名は舳松村字塩穴。その後、舳松村は堺市に併合されて耳原町となり、後に協和町となった。古来から周囲の地域の死牛馬を処理する独占的権利を与えられており、後に堺の町内の警察、刑の執行の役目を負うようになった。年貢が免除されており、住民は豊かで、周囲から人が集まって村が拡大したという。
なお、地区内には「ちぬが丘」という地名もあるが、これは堺の海沿いでちぬ(クロダイ)がよく釣れたことに由来するという。
しかし、明治維新によりそれらの権利を失った。死牛馬の処理は独占事業ではなくなり、警察・刑の執行も主に旧武士が担うようになった。しかし、代々「死」に関わる仕事をしてきた村ということによる差別だけが残り、住民が満足に仕事に就けなかったことから没落してしまったという。
大正時代になると、この地からも水平社運動の狼煙が上がる。その中心になったのが後に堺市議会議員となった泉野利喜蔵である。
部落の周囲にはダイキン、コニカミノルタ、前田製菓、福助などの大企業の工場がある。戦前には地元の人間を雇おうとしなかった大阪金属工業(現在のダイキン)に対して水平社が団体交渉をしたこともあったという。ダイキンは、戦後の部落地名総鑑事件で再び差別糾弾の対象となった。
協和町は全域が堺市の土地であり、市営住宅や改良住宅等の公共施設になっているという特異な地域である。それらの土地は、もともと不良住宅地だった場所や、前述の企業の工場などの用地を堺市が買い上げたものである。
市営住宅には在日コリアンも多く住んでいる。なぜなら、大正時代に近くの朝鮮部落が立ち退きされられた時に、泉野利喜蔵がその地の住民を協和町に受け入れたからだという。しかし、外国籍である在日コリアンは戦後の同和対策事業の対象にならなかった。そのため、「部落民」と在日コリアンの間で摩擦もあったという。
人権ふれあいセンターの隣りにある「ほてい温泉」には、こんなお知らせが。この地では、なにかと「同和問題」が枕詞になってしまうようだ。
ほてい温泉の入浴料は200円と格安だ。館内では延々と浪花節がかけられている。浴場は広く、湯加減もちょうどよい。しかし、サウナはない。個人的にはサウナがあって、近くに食堂もあった荒本の寿温泉の方がよいと感じた。
玄関近くには浴場の歴史が説明されていた。ほてい温泉は戦後の同和対策で作られたわけではなく、なんと100年以上の歴史ある公衆浴場なのである。
しかし、この部落の難点は、やはり公有地しかないことである。中心部から一番近いコンビニまで歩いて10分以上かかる。そのため、生活に便利とは言いがたい。今後は老朽化した施設が出た場合は、土地を民間に売り払って商業地にした方がよいのではないだろうか。
市営住宅は既に一般公募がされており、地区外からの入居者も多いという。