高松自動車道の板野ICの近くには、同和施設である川端教育集会所がある。しかし、全国部落調査には川端の地名はなく、明治期の特殊部落改善資料に「板西町川端村原田」の名前が出てくるのみである。
現在の周辺地域の風景は、普通の農村と変わらず、部落には見えない。しかし、地元の部落研究家によれば、ここには徳島県でも最も古い同和住宅があるというので、案内していただいた。
この川端団地は徳島県板野郡板野町川端中谷山にある。高速道路のインターチェンジのすぐ横にあるのだが、細い道を入っていかないといけないので、車では少し行きづらい。写真の通り、早速リサイクル業者の看板があり、自営業者の仕事場になっていることがうかがえる。
町によれば、この団地は扱いとしては町営住宅であり1970年から1973年にかけて建設されたということだ。同和事業が始まったのが1969年なので、この団地は最初期のものである。本来であれば既に耐用期限が来ているのだが、建て替えの予定は一切ないという。
なぜ建て替えをしないかというと、現状の家賃が数千円程度であり、建て替えれば家賃を上げざるを得ないため、それを住民が希望しないからだ。
空き部屋が出来ても、新たに入居者を募集することはしていないため、空き部屋が目立つ。住人のいなくなった部屋は荒れるがままにされている。
建物はそれぞれ平屋の長屋になっていて、4部屋に分かれているのだが、多くの建物が住民によって写真のように様々な改造がされている。案内者によれば、中の壁をぶちぬいて部屋同士が行き来できるようになっているケースもあるということだ。
案内者によれば、「同和地区でなければ、まずあり得ない光景」という。いや、筆者から見れば同和地区でもこのような公営住宅を見たことがない。45年前の水準ではそこそこの「文化住宅」だったのだろうが、そのまま放置され、老朽化して今の状態になったわけである。
団地の横には滑り台、ブランコがあるが、草が伸び放題で、子供がいる様子は見られない。この団地はもはや限界集落と同じで、数十年後には残っていないだろう。
バラックが並ぶ部落の光景が「差別の実態」として紹介され、あるいは改善された立派な住宅地が「事業の成果」として紹介されることはあったが、川端団地のような事例が紹介されることはまずない。